Vampire, Sweetheart

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4

広い食堂にコーヒーの香ばしい匂いが漂っている。
20人くらいは座れそうな長テーブルで、ロイエンタールは新聞を広げていた。
すでに一分の隙もない軍服姿である。

「あー……昨夜は飲み過ぎてしまって……」
ミッターマイヤーが口を開くと、ロイエンタールが顔をあげる。
ダークブラウンの頭髪をきちんととかしつけ、端然とした姿は、どこにも不審なところは見受けられない。
両の瞳は、海の底のような深い青だった。
「……やっかいになってしまって、すまなかった」
ミッターマイヤーは勢いよく、ぺこりと頭を下げた。
普段はそこまで羽目をはずす方ではないので、さして親しくもないロイエンタールの前であのような醜態を演じてしまったことは、自分でも恥ずかしく思っていた。
「なに、あれくらいかまわんさ」
事もなげに答えると、ロイエンタールはすぐに新聞に目を落とし、まるで一人きりであるかのように、コーヒーを片手に紙面をめくっている。
ごく自然に、他人の介在を拒む空気を出すのが上手い。
それ以上何も言えずにミッターマイヤーは食卓に座っり、運ばれてきたコーヒーや卵料理を黙々と口にした。

様々な考えが溢れていて、聞きたいことがたくさんあるのだが、とても口にできる状況ではなかった。
酔いつぶれて一夜の宿を借り、朝食までごちそうになっている身で、まさか「昨夜俺の寝込みを襲わなかったか」と聞くわけにもいくまい。
同僚の家で、バスローブのまま裸足にスリッパでいるというのも、気まずい。
主がすでに出勤姿なら、なおさらだ。
ロイエンタールはいつもと変わらず淡々としたもので、どこにも昨夜のような狂気じみたものは見えない。

……やはり、あれは夢だったのだ。

そう、ミッターマイヤーは自らを納得させた。
初めての高級ワインと、この古城が見せた、一夜の夢。
しかし、あんなになまめかしい夢を見るとは、どうしたわけだろう。
そうした隠微な事に縁がなかっただけに、ミッターマイヤーはもじもじと落ち着かなくなった。
首筋に当たった舌の感触が妙にリアルに蘇ってきて、知らず、顔から火が出るような気分だ。


それに………。
あの部屋で覚えた既視感は、いったい何だったのだろう。
どこかで必ず見た事がある、だが思い出せない、ちくりと棘で刺されたような違和感。
ふと、ミッターマイヤーはフォークを動かす手を止めた。
この食堂の事は、まったく見覚えがない。
ロイエンタール家の領地は別の星だが、オーディンにもいくつか先祖伝来の屋敷を持っていて、今はそこに居住していると聞いている。
ここはそのうちの一つだろう。
独身用の狭い官舎で寝起きしているミッターマイヤーとは比べものにならない、優雅な生活を送っているのだろう。
それにしても暗く、寒い部屋だ。
ぐるりと辺りを見渡してみる。
高い所に小さな窓があるきりで、あまり光が入ってこない構造になっている。
カーテンや絨毯は暗色で統一され、どことなく暗い……他人の家にこんな事をいっては何だが、古びて陰鬱ささえ感じる。
ここまで来る廊下も、やはり堅牢で重々しい空気が漂っていた。

だが、ミッターマイヤーが目覚めたあの部屋は趣がまるで違った。
大きな窓から光が射し込み、薄いブルーと白、金を使った調度品や、天使のモチーフの時計、柔らかなタッチの風景画……と、まるで天空にいるような優しさにあふれていた。
あの部屋だけが、全く違う設計思想でつくられているようにも見える。
そして、どこかで見たような記憶がするのはあの部屋だけだ。


「なあ、ロイエンタール、一つ聞いていいか?」
どうも釈然としない感覚から逃れられず、ミッターマイヤーは思わず口を開いた。
「何だ」
新聞に目を落としたまま、ロイエンタールは短く答えた。
「俺が昨夜借りた部屋だが……」
「あの客間では寝心地が悪かったか」
「まさか!あのような立派な部屋は俺には過ぎた部屋だ」
ミッターマイヤーは慌てて首を左右に振った。
「そういう事ではなく、あの部屋を何かの撮影に貸した事はなかったか、雑誌や映画とか」
「いいや、この屋敷をそういう用途にした事は一度もない」
「そうか……」
ロイエンタールはどこまでも冷ややかで、これ以上何かを聞くのははばかられた。


朝食後は執事が持ってきたクリーニングをした軍服を身につけ、ロイエンタールの車に同乗して、揃って出勤した。
その間もほとんど会話らしい会話はなかった。


仕事中も、ふとした時に古城での不思議な体験を思いだし、ミッターマイヤーは一日中そわそわしていた。
あの部屋をいったいどこで見たのだろう。
朝の淡い光、陶器の目覚まし時計、風景画……懐かしい感じがするあの部屋。
………懐かしい……?
不意に、脳裏にひらめくものがあった。


仕事が終わると、ミッターマイヤーは一目散に実家に戻った。
普段、便りがないのが良い知らせとばかりあまり戻ってこない息子が、前触れもなく飛び込んできたので、両親は目を丸くしている。
「ウォルフ、お前の分の食事は用意していないんだけど……」
困惑している母の言葉を遮った。
「母さん、昔のソリヴィジョンってまだ屋根裏にあるよな?」
「え、ええ、どうかしたの?」


ミッターマイヤーは蝋燭を持って屋根裏に昇ると、埃をかぶっている荷物をひっくり返し、家族の記録をした立体ソリヴィジョンの入った木箱を発見した。
士官学校に入るまで使っていた自分の部屋に持ち込むと、箱を開けて中身を調べる。
目当てのものはすぐ見つかった。
専用機にセットすると、カタカタと古びた機械特有の音をたてながら映像が流れ出す。

最初はピントが合わず漠然とした白っぽい画面だったが、一人の青年の姿が浮かび上がって来る。
200年前のウォルフガング・ミッターマイヤー元帥の映像だった。
それは一風変わっていた。
ミッターマイヤー元帥と言えば、一族でもっとも高い地位に上り詰めた人間だ。
今も残っている映像や写真は、公式の場で撮影された帝国軍人、国務尚書としてのものや、家族の記念日に妻や子供たちに囲まれて撮られた良き家庭人の顔をしたものばかりだ。
だが、この映像は違っていた。


まだ若い、おそらく20代の頃のものだろう。
白いシャツに軍の制服のズボン姿のミッターマイヤー元帥が、ベッドに横たわっている。
寝起きかもしれない。
とてもリラックスしていて、無防備に両腕を投げ出し、くつろいだ姿勢をとっている。
カメラが捕らえるのは、少年のようなあどけなさを残した顔だ。
やがて、元帥……いや、青年士官と言った風情のミッターマイヤーは、カメラを向けられている事に気づいて、跳ね起きる。
はにかんだように頬を赤らめ、唇が「やめろ」という形に動いた。
音声は入っていないし、映像は色褪せて、無声映画のようなノスタルジックな雰囲気がある。
撮影者は一向にやめる気がないらしく、徐々にカメラは近づいて行った。
被写体の青年は少し憮然とした顔で、手を伸ばしてカメラから自分の顔を隠すような仕草をするが、やがてベッドから出て、逃げるように部屋を移動した。
くるくると軽やかに動くその姿を、カメラは追い続ける。
柔らかい蜂蜜色の髪が、透けるように光に揺れている。
そのうち根負けしたように、青年は笑い出した。
弾けるような、小気味の良い笑顔だ。
そして、しょうがないなあという風に、撮影者を上目遣いに見た。
追いかけっこに負けて捕まってしまった子供が、降参しているようだ。
カタカタと映像が乱れ、ヴィジョンはそこで止まった。


ミッターマイヤーは、何度か映像を巻き戻した。
元帥が寝ていた天蓋付きのベッド、枕元の天使の目覚まし時計、軍服の上着が無造作にかけられていた青い小花模様のソファ、空色の壁の風景画、大きな飾り窓……。
間違いない、これが撮られたのはあの部屋だ。
すべてがタイムスリップしたように、このディスクに保存されていた。
幼い日に、家族で集まるたび一族に残る映像の上映会をしていた。
その時に、確かにこの映像も確かに見た記憶がある。
だからあれほど、あの部屋に郷愁を感じたのだ。
それにしても、元帥の淡い黄色の髪やグレイの瞳、白いシャツが、あの部屋の淡い空色の壁やミルク色のリネンに何と良く良く映える事だろう。
まるで彼のためにつくられた部屋かと思うぐらいだ。


200年前、先祖のミッターマイヤー元帥、いやミッターマイヤー青年は、あの館に行った事がある。
ミッターマイヤーは直感した。
あの古城は建造されてから、どう見ても数百年は経っている。
ずっとロイエンタール家の所有だったのかは定かではないが、あの館に確かに先祖が入った事があるのだ。


それにしても、とミッターマイヤーは思った。
幼い日に一度か二度見ただけのこの映像が記憶の奥底に刷り込まれていたのは、明らかに他に残された元帥の姿とは違うからだ。
帝国軍人の鑑と謳われた忠臣、史上初の平民宰相の偉大な姿はそこにはない。
少年のような顔つき、無防備にベッドに寝そべっている姿、はにかんだり拗ねてみせたり、くるくる変わる飾り気のない表情、そして最後に見せた鮮やかな笑顔。
撮影者は、よほど親しい人間だったに違いない。


ずっと引っかかっていた疑問が氷解した安堵とともに、ミッターマイヤーはほんの少し落ち着かなくなった。
何というか……先祖がずっと隠してきた誰にも見せない部分を見てしてしまったような気分だ。
残っているのだから別に秘密でも何でもないし、子供の頃は何とも思わなかったのに、今見てみると少し印象が違って見える。
この映像は、眩しいほどの若々しさや幸福に満ちあふれていた。
それは、恋人同士の逢い引きを、覗いてしまったような……。
ミッターマイヤーはそんな申し訳ない気持ちになったのだ。
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