Vampire, Sweetheart

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3


ミッターマイヤーは寝苦しさを覚えて、目をあけようとした。
だが、体は思うように動かなかった。
疲れた朝、頭の奥は冴え渡っているのに体がまだ眠っている時のような感覚だ。
徐々に五感がきくようになり、甘さとほろ苦さが混じったような香りが脳髄に染み渡る。
濃厚な、薔薇の香りだ。
なぜこの香りを知っているのかというと、ミッターマイヤーの家にたくさんの薔薇があるからだ。
幼い日、母さんが紅薔薇の花びらを集めてつくった香油の香り。
体はどんどん下に沈んでいた。
いや、沈み込むほど柔らかい何かに寝ているのだ。
たとえば、薔薇の花びらの海に……。
ようやく目をあけると、暗闇に一条の光が射し込んでいる。
ライトが当たっているのかと思ったが、そうではない、月明かりだ。
月の光がこんなに明るいと初めて知る。

やがて黄色い光の中に、ロイエンタールの姿が浮かび上がった。
黒いシャツ、黒いズボンと黒ずくめに身を包み、いつもの熱のない皮肉な顔で、こちらをじっと見ている。
芸術家が魂をこめずにつくった男性神の彫像のように完璧な姿。
この男にはなんて闇が似合うのだろうと、ミッターマイヤーはぼんやり思った。

ここはロイエンタールの家なのだろうか、あの後連れて来られたのは。
礼を言わねばと思ったが、痺れたように口が動かなかった。

だが、何かがおかしい事にミッターマイヤーは気づいた。
ロイエンタールの瞳だ。
片方の目は蒼いのに、もう片方は闇のような色をしている。
影になっているのかと思ったが違う。
煌々とした月光の下、ロイエンタールの青白い顔にどこにも影はない。
なぜ、左右の目の色が違うのか。
それでも神秘的な、美しい瞳だ。
目を逸らしたいのに、吸い寄せられるように魅入られてしまう。
ミッターマイヤーの体は、意志に反してますます沈み込んでいった
薔薇の香りが、質感を持ってミッターマイヤーをからめ捕っているかのようだ。
このまま目を閉じて微睡んでいたいような、うっとりとした夢心地になる。

だが、次の瞬間、ミッターマイヤーは大きく目を見開いた。
ロイエンタールの手に、細いナイフの鋭い光が反射した。
華奢な銀の刃が、月光にきらめく。
ロイエンタールは、切っ先をゆっくりとこちらに向けた。
自分の首筋に、鋭く尖ったものが当てられても、ミッターマイヤーは微動だにする事ができなかった。
得体のしれない恐怖に、心臓が早鐘のように鳴っている。
ロイエンタールが少しでも手を滑らせれば、頸動脈が切られるだろう。
仰向けに投げ出された体は、あまりに無防備だった。
これではまるで祭壇に捧げられた生け贄ではないか。
なぜ、こんな事をされるのか皆目わからないが、人間死ぬときはこんなものだろう、と不思議な諦念が頭をかすめた。
だが、最後まであがいていたい。
なぜ、と問いかけるように精一杯目を見開いてロイエンタールを見つめたる。
次の瞬間、ちくりと首元に小さな痛みが走った。
つっと、液体が流れる感触がする。
このままナイフが皮膚に食い込めば、彼の人生は終わりを迎えるのだ。
浅く息を吸い込むと、濃密な薔薇の香りにむせそうになる。
驚愕も恐怖も、何もかも麻痺してしまっているようだ。
自分でも情けないと思うが、ロイエンタールに向ける目に哀願するような色が混じった。
すると、信じられない事に、ロイエンタールは口元にかすかな笑みを形作った。
蒼と黒の瞳が、甘く細められる。
不思議な事に、その瞬間のロイエンタールは幸福そうに……そう、至上の幸福に包まれているように見えた。
人にナイフをつきつけておいて、なぜ、とミッターマイヤーは叫びたかった。
ロイエンタールの端正な顔が、だんだん近づいてくる。
鼻先がつくほどの距離までくると、ミッターマイヤーは反射的に目を閉じた。
殺されると思った。
だが、首筋に感じたのは痛みではなく、生暖かな感触だった。
びくっとミッターマイヤーは体を震わせた。
ロイエンタールの舌が、ミッターマイヤーの首もとを舐めている。
まるで蜜を舐めるように、垂れた血を舐めとっているのだ。
首もとに息がかかり、ちろちろと意地悪く舌先が傷口を行き来する。
こうして嬲って、生殺与奪権を主張するように。
だんだんとミッターマイヤーの体の奥に、新たな感覚が生まれてくる。
両手で肩口を抑えられ、まるで自分の全てをロイエンタールに支配されているような錯覚に陥る。
ふっと、首に当たる舌の感触が消えたと思うと、やがて半開きになっていた唇に彼の唇が合わせられた。
ロイエンタールの舌先が進入してくる。
噛みつくようなキスをされると、血の味がした。
息もできないほど激しく舌をからめられ、閉じる事を許されない唇から唾液がこぼれ落ちた。
「………んっ………」
鼻で息を吸い込むと、薔薇の香りが脳髄に流れ込み、霞がかかったように朦朧となる。

そのまま、ミッターマイヤーは意識を失った。








遠くで、懐かしい音色が流れている。
澄んだ美しいオルゴールの音だ。
目をあけると、朝の光が射し込んでいた。
ミッターマイヤーは、無意識に音のする方へ手をのばした。
冷たくごつごつとしたものが手に当たる。
かざして見ると、陶器製の時計だった。
なめらかな白地が青い模様で彩られ、小さな天使を象った装飾がほどこされていた。
後ろのスイッチをひねると、音はやんだ。
時間は7時を指している。
自分が大きく柔らかなベッドに寝ている事に、その時初めて気づいた。
ベッドはまるで王侯貴族が使うような天蓋付きで、青い生地に金モールの飾りが吊り下がっていた。
仰向けになっていると、天蓋の天井に描かれた天使の絵が目に飛び込んできた。

徐々に、昨夜の事を思い出す。

高級クラブで赤ワインをしこたま飲み酔っぱらって、ロイエンタールに抱えられてタクシーに乗った。
その後は………。
寝起きの頭は、まだ靄がかかったようにはっきりしない。
首もとに手をやると、熱を持ったようになっている箇所がある。
古いフィルムが回るように、残像が蘇った。
月光、薔薇の香り、首筋に当てられた冷たいナイフの刃……ロイエンタールの蒼と漆黒の瞳……。
ミッターマイヤーは思わず布団をはねのけ、がばっと起きあがった。
南に向いた飾り窓から、爽やかな朝日が射し込んでいる。

……あれは、何だったのだ?

昨夜の痕跡などどこにも見つからないほど、部屋はすがすがしい光に満ちあふれている。
月光に照らされ、ロイエンタールが見下ろしていたのは、夢だったのだろうか。
首筋を指で辿っても皮膚はなめらかで、傷跡は感じられない。
ただ一カ所が、熱くなっている。
ミッターマイヤーはきょろきょろとあたりを見回した。
広い部屋だ。
窓の側に青地に小花柄の布張りの応接セット、水差しを置いた丸いテーブル、作り付けのクロゼット、空のような壁紙。
部屋を見回したミッターマイヤーは、不意にくらりと目眩に襲われた。

………ここは、どこだ?

ロイエンタールの家だとは、想像がつく。
だが、ミッターマイヤーはこの部屋を知っていた。
あの窓の飾りを、応接セットの小花柄を知っている。
ベッドの脇に目をやった。
美しい装飾の陶器製の時計、あの天使の飾りを知っている。
あんな凝った時計は特注品だろう、店で見かけたわけでは決してない。
おそらく一方の壁には、湖水地方を描いた風景画があるはずだ。
目を移すと、記憶通りの絵が朝の光を浴びてそこにあった。

……俺はこの部屋を知っている……?

呆然となっていると、ノックの音が聞こえ、黒い執事服の老人が入ってきた。
「朝食の支度ができております、下までご案内します」
「……朝食……?」
我が身を見てみると、ミッターマイヤーは白いバスローブを着ていた。
昨日あれだけ酔ったはずなのに、酒の匂いはなく、清められたように体がさっぱりしている。
髪からはふわりとシャンプーの香りがする。
「俺の服は……?」
「お支度はできております。朝食の後で……」
執事は慇懃に頭を下げる。


毛足の長いスリッパに足を通すと、執事に案内されるままに階下に移動した。
途中、洗面所に寄って鏡を見た。
この家は洗面所も美しい陶器製で、鏡は周囲を装飾された額に入っている。

ミッターマイヤーは鏡の中の自分を見つめた。
大丈夫だ、意識はしっかりしている。
バスローブの合わせ目から見える首筋には赤い痣がついていたが、血が出たような形跡はない。
注射針のようなものなら跡は残らないが、あのナイフの刃先はそんな細いものではなかったし、数ミリは切られたような気がした。

……あれはすべて夢だったのだろうか。

寝ているうちに虫にでも刺され、夢うつつにあんな幻影を見たのかもしれない。
それほど昨夜の出来事は、現実離れしていた。

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