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怪我を負ったのは、その少し後の出来事だった。


長く手がけていた事件が一段落ついて、久しぶりに日付が替わる前にエヴァの元へ帰れると少し油断したのかもしれない。
同僚たちからの酒の誘いを断り、ミッターマイヤーは道を急いだ。

気がつくと、ひと気のない場所で、数人に囲まれていた。
全員がだらしない格好をした、どこかのグループの末端構成員のようだった。
片耳に揃いのピアスをつけている。
明らかにローエングラム・ファミリーではない。
あそこの連中は、こんな安っぽい格好を最も嫌う。


「話がある」
一人が銃を取り出し、こちらにつきつけた。
「こんなに大勢で来なくても、話ぐらいできるだろう」
ミッターマイヤーは、何とか隙を見つけようと注意深く辺りをうかがった。
あいにくの裏通りで、にぎやかなネオンサインは遠かった。
通行人が全く来ないのは、どこかで連中の仲間が見張っているせいだろう。
「残念だったな、誰も来ないぜ、刑事さん。お前には痛い目にあわされたから、こっちもちゃんと用心してるのさ」
リーダー格が一人、歩みよって来た。
その顔には、見覚えがある。
しばらく前に、ミッターマイヤーが逮捕したチンピラの兄だった。

明らかにヤク中だったそのチンピラは、人通りがピークの通勤時に刃物を振り回し、二人の関係ない人の命を奪い、数人に重傷を負わせた。
その後、逃走しアジトに隠れていた所を、ミッターマイヤーとバイエルラインが追いつめ捕まえた。
チンピラの裁判は、まだ行われている最中だったが、心神喪失を主張する弁護側の主張がどれだけ通るかが争点になっているはずだ。

「こんな事したら、弟の裁判にも不利になるだろう」
ミッターマイヤーは冷静に言い返した。

「うるせえよ」
一人が銃口を向けたまま、リーダー格が合図をすると、数人が後ろに回り、あっという間に羽交い締めにされる。
携帯を取り上げられると、男たちは面白がってギリギリと腕を締め上げた。
ミッターマイヤーはわずかに顔をしかめる。

なぜ、こんな事をするのか……何が彼らをこんな暴挙に出させたのか、ミッターマイヤーの頭の中でめまぐるしく考えが浮かぶが、さっぱり解らなかった。
これは、ただのリンチだ。
どう見ても腹いせだった。
だが、警官を襲えば、罪はそれだけ重くなる。
そんなことは彼らは百も承知のはずだ。
だいいち、ここでミッターマイヤーを相手に憂さ晴らしをすれば、仲間の裁判を控えている彼らには、デメリットしかない。


「なんでこんな目にあうか、わからねえって顔してんな、刑事さん」
リーダーは顔中を歪めてニヤニヤしている。
彼の手にはいつの間にかナイフが握られていた。
「あんた、ローエングラム・ファミリーとつるんでんだろ?」
「違う」
ナイフを胸先につきつけられた。
「嘘つくんじゃねえよ」
言うなり、ミッターマイヤーのシャツを引き裂く。
「……ローエングラムの奴らが、俺たちを潰そうとしてんのはわかってんだよ。お前があいつらの犬だってのもな。おかげで弟は……」
切っ先が肌に食い込む。
「次の公判で、ローエングラムの連中が証言するんだとよ。もう死刑は確定したようなもんだと言われたよ」
「…お前の弟は、重くて懲役数十年だ。死刑にはならない。そのくらいわかるだろう」
「うるせえな。何言ったって無駄だよ。あいつらのせいで、俺たちグループはどんな目にあってきたか……!」

リーダー格の男の目には、狂気のようなものが宿っていた。
冷静なら、グループ同士の抗争とジャンキーの通り魔事件を混同などしない。
死刑判決などという、こけおどしに乗せられることもない。

ミッターマイヤーの背筋を冷たいものがはしった。
こいつらもクスリをやっている。
正常な判断力がなくなっているのだ。
おまけにローエングラムに押されて、グループが壊滅しているようだ。
理性で抑える人間がいない。


リーダーがナイフを突き刺した時、ミッターマイヤーは瞬時に不自由な体をねじった。
それが急所をはずした、と後から言われた。
だが、その時は、わき腹をえぐられた衝撃に、焼けるような傷みが走った。

急に、後ろから抑えていた男たちの手が離れ、ミッターマイヤーはその場に崩れ落ちた。
派手に血が流れ出している。
早く血を止めなければ……このままでは傷の深さよりも、出血のせいで命を落とすことになる。
朦朧とした意識の中、酸素をとりこもうと、口をあけた。

その時、チンピラたちの手が離れたわけがわかった。
さっきまで、ミッターマイヤーにナイフをつきつけていたチンピラが、地面に倒れている。

その後ろ、星灯りと遠い街のネオンに、黒いスーツ姿の長身の男が銃を構えた姿が照らし出されていた。

「……ロ…イ……」
名前を呼ぼうとしたが、腹に力が入らなかった。
「何も言うな」
ロイエンタールが、怒ったような声を出す。

チンピラ達が、次々と暗い地面に倒れていた。
夜の住人である数人の黒服の男たちが、手加減もなく彼らを殴り倒している。

「……大丈夫か」
もう一度、今度は近くでロイエンタールの声がした。
出血している傷口に何かが当てられる。
ロイエンタールがジャケットを脱いで、傷口に押し当てているのだ。
「少しのあいだ、押さえられるか?」
ミッターマイヤーの手を取り、患部に当てさせる。
体が宙に浮いた。
「ロ……イ………」
スーツが台無しだ…、と、横抱きに抱え上げられたミッターマイヤーは口に出そうとした。
ジャケットがどんどん血を吸って重くなる。
「いいから、何も言うな」

彼の黒いメルセデス・ベンツが、街角で待っていた。
後部座席に運び込まれると、後から乗り込んできたロイエンタールの膝の上に頭を乗せる体勢で寝かされた。

この頃には、ミッターマイヤーの意識は混濁していて、あまり細かいことは覚えていなかった。

ただ、いくつかは断片のように記憶の隅に残った。
これじゃ高級車が血だらけだ、と思ったこと。
ロイエンタールが何度も「すまない、俺のせいだ……」と耳元で謝っていたこと。
髪の毛を思いがけず優しく撫でられて、どこか安心したこと。
薄れて行く意識の中で、ロイエンタールの顔が悲痛に歪むのが見えた。

そんな顔するな、と言いたかったが、声が出なかった。
お前のせいじゃないのに。
誰のせいでもない。
自分を責めるなよ。
こんなの怖がってたら、刑事なんかつとまらないよ……。

「……お前と、逢うべきじゃなかった……」と、ロイエンタールが囁くのが、耳の奥に聞こえた。
「二度と、迷惑はかけない…」
それは、悲しげな声だった。





ミッターマイヤーは、意識を失ったまま、救急病院に運ばれた。

傷自体は深くはなかったが、やはり出血がひどく、数日入院する事になった。

エヴァは毎日来て、あれこれと世話を焼いてくれた。
「きっと、たまには体を休めた方がいいっていう、神様からの休暇のプレゼントですね」
健気にエヴァは言うが、ミッターマイヤーの意識が戻った時、最初に目にしたのは、泣きはらした目でのぞき込んでいた彼女の顔だった。
数日たち、いつものようにツバメのように軽やかに動く妻を見て、もしあの時命を落としていたら彼女にどんな思いをさせたかと、ぞっとする。

バイエルラインや、ミュラーといった同僚も何度か見舞いに来た。

バイエルラインの報告によれば、ミッターマイヤーを襲ったチンピラ達はほとんど捕まったが、リーダーだけは行方がわからないという。
「ファミリーの抗争が絡んでるんでしたら、もしかしたら…」
バイエルラインはそこで言葉を濁した。
私的に制裁を受けた可能性がある、と言いたいのだろう。
凄惨な顔つきで銃を構えていた長身の姿を思いだし、ミッターマイヤーはそれ以上何も言わなかった。

同僚や友人、事件で関わり世話してやった事がある人々から、花束やフルーツといった見舞いの差し入れが届き、病室は賑やかだった。

一度、差出人の名前のない花束が届いた。
「まあ、すてき、どなたからかしら……」
エヴァがうっとりと見とれるほど、大きく見事な深紅の薔薇の花束だった。
こんな気障なものを送って来るのは、あいつしかいない、とミッターマイヤーは思ったが、何も言わなかった。

“お前と、逢うべきじゃなかった”という囁き声が、不思議と耳に残っている。

ロイエンタールは、もう二度と会いに来ないかもしれないと、どこかで漠然とミッターマイヤーは感じていた。
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