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破片を体中に浴びたミッターマイヤーは、男に言われるまま、クラブの裏口から入って中のシャワーを借りた。


思った以上に広い店で、バーといくつかの個室に分かれた会員制の高級クラブらしく、シャワーのあと借り物の白いバスローブを羽織ったミッターマイヤーは、個室の一室に案内された。

手際よく、シャンパンとフルーツボウルが用意してあって、革張りのソファに腰をおろした男が「さきほどの礼だ」とグラスを勧めたが、ミッターマイヤーは断った。
一応、仕事中であったのだ。
「そうか」と男はあっさり引いて、ミネラルウォーターを運ばせた。

「見せてみろ」
と、男にバスローブの袖をまくられた。
ナイフがかすった細い傷が二の腕にある。
「シャワーで洗い流したから大丈夫だ、大したことない」と言ったが、「悪い菌でも入ったら面倒だからな」と、男は、置いてあった救急箱から応急処置の道具を出し、妙に馴れた手つきで消毒をほどこした。


着ていたシャツとジーンズのクリーニングが終わるまで、ミッターマイヤーはミネラルウォーターを瓶ごと飲みながら、小一時間ほどその部屋で男と過ごした。

男は、どうやらこのクラブの経営者のようだった。
従業員たちは男の前で、みな平身低頭している。
畏怖されているようにも見えた。
夜のこの街に棲息する者が、どんな商売に関わっているかは、まだ街の掟に不案内なミッターマイヤーでも想像がつく。
男は、通りにいるチンピラまがいの連中とは明らか違う空気をまとっていた。
見栄えも良かったが、何より気品のようなものがあり、これでは下の者が近寄りがたいのも当然だろう。

話は自然とさっきの女の事になる。
てっきりこの男の恋人なのかと思ったら、違うという。
「バーの常連客だ。金を持っているからと言って、うちの連中が特別扱いしたのを勘違いしたのだろう」
聞けば、誰でも知っている有名財閥の娘だというので、ミッターマイヤーは目を丸くした。
しかし男は、淡々としたものだった。
「一度寝ただけで、まさか刃物を持ち出してくるとはな。感情的になった時の女は、何をしでかすか一番わからん」

「そんなに女の場数を踏んでいるなら、もう少し物の言い方というものがあるだろう。何もあんなに怒らせることないじゃないか」

ミッターマイヤーの趣味ではなかったが、大方の男なら美しいと感じるような女だった。
しかも有名一族の娘である。
その女が哀れなほど身を晒けだし必死になっていたというのに、男の方は終始冷淡な態度で、眉一つ動かさなかったのだ。

「向こうが勝手に寄って来た。なぜ俺の方が機嫌を取らねばならんのだ。だいたいあんな女は掃いて捨てるほどいる。いちいちかまっていたら身が持たん」
男の声は、まるで塵でも払うかのような調子だった。

この時ばかりは、ミッターマイヤーは女の方に同情を覚えた。

「お前、そんな事言ってると今にもっとひどい目にあうぞ、確かにナイフなんか出したのはよくないが、それもお前に惚れてるからだろう? 振るにしてももっと女性の気持ちを踏みにじらないようにだなあ…」

ミッターマイヤーはソファにあぐらをかいて、自分ながらくどくどとおせっかいな事を言わずにはいられなかった。

女が不憫だったこともあるが、それ以上に男が、自ら刃物の前に身を晒すようにしているようにしか見えなかったからだ。

男は時おり冷笑を浮かべて反論しながらも、その説教を面白がるように聞いていた。
いい大人に対して、今さら常識的な事を説いた所でどうなるとも思わなかったが、この男はどうも最初から女性全般に対してマイナスの感情を抱いているらしく、言葉の端々に侮蔑的な感情が表れていた。

やがてクリーニングが終わったからと、衣服を返され、着替えたミッターマイヤーは、店を辞去する事にした。

警察手帳はずっと身につけてはいたが、ミッターマイヤーを見る従業員たちの目つきがうろんなものになっている。
異端者は、どことなく匂いでわかるのだろう。
男の方はよほど大物なのか、ミッターマイヤーの素性を気にもとめていない。

店自体が合法なのか違法なのかはわからないが、セキュリティの厳重さや伝え聞いた話からは、かなりのセレブリティが集まる店のようだった。
もっともこの街ではスレスレの所で法の目をかいくぐっているものなど、いくらでもある。


「ここが……」
出口まで送ってきた男が、ふとミッターマイヤーの二の腕に触れる。
シャツがざっくりと切られた部分だ。
「ああ、女房に怒られるなあ…」
妻のエヴァンゼリンに余計な心配をかけると思うと、ミッターマイヤーの顔は曇る。
「新しいの、買ってやろうか?」
「そこまで気使うなよ」
真顔で男が言うが、慌てて丁重にお断りした。

「じゃあな、あまり女を泣かせるなよ?」
別れ際に念を押すように言うと、男は黙ったまま肩をすくめただけだった。


深夜。
眠らない街を歩きながら、男の名を聞かなかったことに、ミッターマイヤーは気がついた。
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