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「とりあえずしばらくはこの屋敷で暮らしてもらおう」
逆らいようのない声で言われ、ウォルフは腹をくくるしかなかった。
話を総合すると、ロイエンタール提督はウォルフを助けてくれた一件で、謹慎処分をくらっているようなのである。
これは確かに悪い事をした…。
「安心しろ、しばらくたってローエングラム侯のお気が済んだら、お役御免にしてやる。それで綺麗さっぱり金の事も水に流してやる」
そう言われてホッとした、と言う面もある。
それに、このロイエンタールという人物、確かに恐ろしげで有無を言わせず人を従わせるような雰囲気があるが、少なくとも理不尽な無茶ぶりはしなそうである。
例えば、鞭を振り回して皇帝の権威を振りかざすような。
ウォルフの前で話しているあいだも、たまに蔑むような皮肉な表情を浮かべるが、それ以外は醒めた、無関心な様子だったので、しばらく働けば金の事は無効になるという約束はちゃんと守ってくれそうな気がしたのだ。
……まあ、体動かして働くことは、好きだし、いっか。
そう気楽に構えていた事は、すぐにとんでもない思い違いだった事が分かる。
すぐに年老いた執事が現れ、別室に連れて行かれたかと思うと、服を全部脱げ、と言われた。
「はあ?何するんですかっ」
確かにさっき、ロイエンタールはウォルフの着古したTシャツと膝に穴のあいたジーンズを、ゴミでも見るような目つきで見ていたが、一応、一番大事なジーンズなんだぞ、これ。
と思う間に、巻き尺を持った仕立屋が現れて、下着姿のウォルフの全身の寸法をすみずみまで計測しだした。
「ちょっと我慢してくださいまし、制服をあつらえないといけませんから、あと平服も何枚かご注文頂まして」
出来上がるまで何日かかかりますので、それまでこちらをお召し下さい、と与えられたのはピラピラとしたレースのついたブラウスと、光沢のあるチョコレート色の生地のズボンであった。
宮廷の小姓のような服装である。
ウォルフのプライドがいたく傷つけられたのは、その仕立屋が子供服専門であったことだ。
「成人してるとは知らず失礼しました。まあサイズもぴったりだからそれでいいでしょ」
では近日中にお持ちしますので今はそちらで我慢してださいと、仕立屋は帰って行った。
確かに渡された服は体にあっていたが……。
軽いアイボリーのブラウスは襟元を大きなリボンで留めなくてはならないし、袖口にもレースがついているので、動きにくいことこの上ない。
次に「髪を整えます」と口髭を生やしたおネエ口調の男が現れ、洗いっぱなしの髪をあちこちいじりだした。
「色は綺麗なハニーブロンドなのにねえ、うまくまとまらないわ」
と愚痴るのは、ウォルフのはねっぱなしの髪質がお気に召さないらしい。
どうも貴族の若様風におかっぱのマッシュルームのようなスタイルにしたいらしいのだが、途中で諦めてふわりと整える程度にしてくれた。
毛先が外側にはねやすい髪質でよかった。
あんな時代錯誤の髪型、とうてい似合うはずもないし家の回りを歩いたら笑い者になってしまう。
「ミッターマイヤー様、家庭教師の先生がお待ちです」
案内に呼びにきた執事が、身支度を整えたウォルフを呼びに来た。
「ずいぶん、お可愛らしくなりましたね」
「そうですかあ?」
「そうですよ、こちらでご覧になって見ては」
不本意な格好をさせられむくれているウォルフの前に大鏡を持ってきて、全身を見せてくれたが、なるほど、我ながら中々巧く化けたもので、お行儀が良さそうに見える。
可愛いと言われるのは微妙だが、最初は厳めしい置物のようだと思っていた老執事が、孫でも見るような柔和な目つきをしているので、ま、いっか、と気楽になった。
案内された書斎で待っていたのは、士官学校を退官した立派な白髪の元教授で、革張りの分厚い本を山のように積み上げていた。
比喩でも何でもない、結構大きな書き物机の脇に、小山がいくつも出来ているのである。
「過去500年間の戦史です。主なものだけでも一週間で覚えてしまいましょう」
100冊はありそうな本の山を前に当たり前のように言われて、ウォルフは固まってしまった。
体を使って働くのだとばかり思っていたのに、何とお勉強である。
「これ……こんなに、無理ですよっ」
「何を言います、元帥府にお仕えするとなると、これくらい一般常識ですぞ?厳しくしつけろとロイエンタール閣下に言われているのでそのおつもりで」
間違いなくこの人、鬼教授だったに違いない。
厳しくと発音した時、海溝のように深い皺のある顔が生き生きと輝いたのだ。
戦術史が終わると次は艦隊戦の戦術理論の授業を受け、頭の中が爆発しそうになっていると、執事が昼食に呼びに来た。
ようやく一息つけると思った所に、社交界のマナーの講師とかいう気取った男が同席し、フォークの動かしかたを細かく注意されたり、聞いた事のない宮廷料理の名前を覚えさせられる。
だいたいどの料理も、お上品にちょっとしか盛ってないし、複雑に調理されすぎていて元の食材が何なのかもわからない。
これでは、とても、だだっぴろいテーブルに並んだ料理を味わうどころではい。
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