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……終わりだ、今度こそ。

軍や政府関係のお偉いさんしか使用できないはずの、馬鹿でっかい地上車がミッターマイヤー家の前に止まった時、ウォルフは今度こそ、そう観念した。

案の定、降りて来たのはいかめしい軍人で、狭い庭先でしゃちこばった敬礼をし、「ロイエンタール上級大将から言いつかってお迎えにあがりました」と告げられた。

行き先もわからぬまま、ウォルフは後部シートの乗客となった。
車内は広々としていて、揺れもなく、シートは快適である。
普段使っているタクシーなんぞと、比べものにならない乗り心地だった。

しかし、緊張しきっているウォルフの頭の中は、それどころではなかった。


数日前、仕事先の伯爵邸で訳のわからぬうちに投獄されそうになり、もっと訳のわからぬうちに生還した。

頭の上で鞭がうなっていた時、冗談ではなく、彼は死を覚悟した。

みじめに怒鳴りつけられていた時、その場にいたロイエンタール上級大将が横やりを入れてきて、伯爵を黙らせ、呆然としている間にウォルフと父と助手は解放された。
事情は分からないが、どうも伯爵家とロイエンタール上級大将の内輪揉めであるらしい。

得意先を一つ失った事は遺憾ではあったが、それも命あってのモノ種。
あんな目に遭うくらいなら、大貴族相手の仕事はもうこりごりだ。
普段は滅多に仕事の愚痴を言わない父親が、ここ数日、行きつけの飲み屋の職人仲間に、こぼしまくっている。

とりあえず、ミッターマイヤー家にとっては、この一件は終わった事で、これからはせいぜい酒場でのネタ話になるぐらいだと安堵していた矢先の事である。

ロイエンタール上級大将の名で、迎えがやってきたのは。


……今度こそ、何か罰せられるだろう。

あの時ロイエンタール上級大将は、金がどうの、と言っていた。
状況が飲み込めていなかったウォルフも、解決が金でなされた事だけは察している。

まさか、その金を請求されるわけでもないだろうが、浮き世離れした世界に住んでいる連中が、どんな難癖をつけてくるか、この件で思い知ったのも事実だ。

流れる窓の景色も目に入らないまま、ウォルフは憂鬱になるばかりであった。


オーディンの都市計画の一環として、周辺部に森がつくられ、貴族の大邸宅は郊外に集中している。
どこも敷地は広大で、隣は森一つ抜けた先、というのも珍しくはない。

やがて、車は、そんな邸宅のうちの一つに入っていった。
先日の伯爵家ではない。
貴族の邸宅としたら中程度だろう。
門閥貴族たちの城のような偉容はないが、それでも森に囲まれた瀟洒な建物は、優にホテル一つ分ぐらいの広さはあった。

だだっ広いエントランスから、長い廊下を通って応接間へと案内される。

ウォルフは、貴族の家の母屋に入るのが、これが初めてだった。
何度も庭師として門をくぐってはいたが、今まで入れたのは、裏口やキッチン、守衛の詰め所までである。

迎えの軍人の後について廊下を歩きながら、全てが絨毯張りで足が沈むようにふかふかしている床や、飾り窓から下がっている緑のカーテンにふんだんに金糸の刺繍が使われている事に気づいて、緊張した。

だが、案内された小部屋の応接セットに腰かけて待つ間、ここはずっと頭の中で想像していた貴族の邸宅とは違う、とも、思うようになった。

調度品は豪華だし、手入れも行き届いてるのに、何というのか、全体の印象が寒々しいというか、殺風景な気がしたのである。
本当にここは人の住みかだろうか、もしここが無人の屋敷だと言われても、ウォルフは信じたかもしれない。

後で分かった事だが、この家には女性の使用人が一人もいないのであった。
それも関係しているのかもしれない。





ロイエンタールは、憮然としていた。

一週間の謹慎をくらったことは、まあいい。
以前にも降等処分をくらった事もあったが、多少の失点ぐらいいつでも挽回できると、彼はうぬぼれでなく、自負していた。


気にくわない事はいくつか、あった。
まず、いつの間にか、自身が伯爵家の婚約者などというふれこみになっていた、という事。

ロイエンタールは結婚という言葉が、五指に入るくらい嫌いである。
いや、前言撤回。
三本の指に確実に入るだろう。
彼にとって、結婚はこの世の諸悪の元凶だった。
つまらない契約などに縛り付けられるから、人は不幸になる。
狭い範囲での噂とはいえ、この自分が婚約した、などという戯言が信じられていた事に、彼のプライドは少なからず傷つけられていた。

もう一つは、さらに面倒な事である。

それは、今朝、処分を受け取りに、ローエングラム侯の元に参上した時に、青天の霹靂のようにやってきた。

「庭師の少年を連れてきて、侍従にしろと?」

何やら、すっかりご満悦のローエングラム侯の前で、彼は眉を潜めた。
主君の後ろに忠実に立つキルヒアイスが、苦笑いをしている。

「その通り。かの庭師は伯爵家の仕事を失い困窮しているであろう。仕事を与えるのは上に立つ者の務めだぞ」
執務室に優雅に座っているラインハルトは、輝くような笑みを見せた。

それは内務省の労働管理局の務めでございましょう、と、異論を唱えるには、今の所、ロイエンタールには失点が多すぎた。
何しろ、直前に、謹慎の件を告げられたばかりなのだ。

もったいをつけてはいるが、ローエングラム侯の命令を要約すると、その庭師を宮廷に連れてきて、大貴族たちの前に披露し鼻をあかしてやりたい、という事だ。

誰もそんな恐れ多い事を普通はやらない、考えつきもしない。
だが、目の前の金髪の獅子が、本気で今の王朝打倒を目論んでいると、ロイエンタールは知っている。
ラインハルトに取って、旧態依然とした貴族社会と宮廷は嗤うべき対象であり、平民階級や下級貴族で能力のある者こそ、ローエングラム陣営を支持する母体であり原動力なのだ。
気骨のある庭師を取り立てるのは、ごく自然ななりゆきとも言える。

「しかし……」ロイエンタールは、何とか理論的に主君を説得できないかと考えた。
「その者は無学な庭師です。軍で働くような教育は受けておらぬでしょう。いきなり侍従に取り立てても、お役には立ちますまい」

「心配はいらぬ」
ラインハルトは、その反論を見越していたようで、得意げに笑う。
「その者を教育をする教師を頼んでおいた。とりあえず士官学校で戦史を教えていた元教授がお前の家に行く事になっている。武術と護身術はロイエンタール、卿が教えてやれ。そうそう射撃の腕はルッツが直々に見てやってもよい、と言っていたぞ」

誰が思いついたのか知らないが、手回しの良いことである。

「謹慎が明けたら、改めてその者を連れて出仕せよ。来月のノイエ・サンスーシでの記念式典にその者を連れて出席できるよう取りはからってやるぞ」

「御意」としか、ロイエンタールには答えようがなっかった。

深々と頭を下げて退出すると、廊下で数人の同僚に囲まれた。

「よう、ロイエンタール、一週間は暇になるらしいなあ!しかしこれではしばらくは女の元へは行けまい」
真っ先に声をかけてきたのはビッテンフェルトであったが、おおっぴらに処分の事を声に出して笑うのは、誰も彼も、それが大したことだとは思っていない証拠もである。

「聞きましたよ、庭師の少年を教育するとか」
次にメックリンガーに、にこやかに話しかけられた。
「何か私にできる事なら協力したいですな。そうだダンスの教師は見つかりましたか?まだでしたら心当たりを当たってみますが」


……誰もが、面白がってやがる。
余計な仕事を背負い込んだロイエンタールとしては、笑い事ではなかった。


まず、庭師を探し出さなければならない。
ローエングラム侯は断ったら無理強いをせずとも良い、と仰せであったが、ロイエンタールとしては庭師ごときに有無を言わせるつもりはなかった。
あの少年には、少なからず元手がかかっている。
金などはどうでもいいが、つまらない騒ぎの収拾をつけさせようとするぐらいは構わないだろう。

まあ、侍従に取り立てられてるのを嫌がる人間は、そんなにはいるまい。

元帥府付きの侍従は、庶民からしたら垂涎の的の職場だ。
幼年学校でも、特に成績が良く、容姿の際だった少年たちが選ばれる。
軍や宮廷の中枢にいるため、その後の出世も早くなる、庶民からしたらエリート職なのだ。
失業対策でおいそれと就けるものではないのである。
それに抜擢されたとあったら、あの庭師は喜ぶだろうか。

と、ここまで考えて、ロイエンタールはふと思った。
……あの庭師の少年は、いったいいくつなのだ。
10代のように見えたが、はて。


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