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皇帝に呼びつけられた後のラインハルト・フォン・ローエングラムは、いつもこれ以上ないほど不機嫌になる。
大事な姉を奪った相手、心の底では軽蔑しきっている相手に、本心を隠して膝を屈しなければならないのだから、当然だろう。
皇帝に謁見した後、虫の居所が悪くなり、必要以上に毒舌になるラインハルトをなだめるのは、いつも彼に影のように付き従うジークフリート・キルヒアイスの役目だった。
だが、その日、皇帝との謁見から自分の執務室戻ってきたラインハルトは、どういう訳か楽しげで、形の良い口元に笑みさえ浮かべていた。
だが、その笑みが、少々、人の悪いものであることを、彼と長年一緒にいて半身のようになっているキルヒアイスはすぐに見抜いた。
何にせよ、この美しい幼なじみの機嫌が良いのは、キルヒアイスにとっても嬉しい事だ。
「どうかなさったのですか、ラインハルト様」
ラインハルトに合わせるように長身を少し折り、いつもの穏やかな声でキルヒアイスは尋ねた。
「キルヒアイス、すぐにロイエンタールを呼んでくれ」
「は…?」
いきなり、旗下の中でもっとも上席に位置する名前を出されキルヒアイスは面食らったが、すぐに次の間にいた副官に用を取り次いだ。
「傑作な話だぞ、キルヒアイス」
副官がいなくなると、ラインハルトは幼い日と変わらず甘親密な顔を見せる。
その日、ラインハルトが急に皇帝に呼び出されたのは、他ならぬロイエンタールの事であった。
皇帝の前で、側近のリヒテンラーデ侯爵からロイエンタール上級大将の名前を出された時、ラインハルトは何か女性で問題でも起こしたのかと、最初は思った。
女性に関するロイエンタールの良くない行状は、たまにラインハルトも耳にする。
だが、他人の私生活に全く興味のないラインハルトは、噂を聞いても何とも思わなかったし、干渉するつもりもない。
要は能力さえあればいいのだ。
だいたい、そんな下世話な事に、いちいち皇帝がわずらわされるとも思えない。
事は、もう少しだけ複雑だった。
ロイエンタールに、皇帝侮辱罪の疑いがあるというのだ。
リヒテンラーデ侯の遠回しな言い回しをよくよく聞いてみると、それは実にばかばかしい話だった。
数日前から、宮廷内の一部で、あらぬ噂が流れているらしい。
ある伯爵家の令嬢と婚約寸前までいったロイエンタールが、あろうことか「おたくの令嬢より、庭師の少年の方が価値があります」と言い放ち、莫大な金額で伯爵家からその少年を買い取り、婚約を破棄してしまったというのだ。
今をときめくロイエンタール様は、伯爵令嬢より、庭師の少年をお選びになった!
現場を目撃していた伯爵家の使用人達が、散々尾ひれをつけて他の屋敷の使用人たちに伝えたため、オーディンの貴族の一部では、まことしやかにその噂が語られるようになった。
行きすぎた噂になると、ロマンチックで背徳的な三角関係の果ての悲恋物語にまで発展しているものもあるという。
その数日後、当の伯爵家が、門閥貴族の筆頭であるブラウンシュバイク侯に泣きついてきた。
噂は事実無根である。
娘の名に傷がついた。
逆に、ロイエンタールは不敬罪を働いた庭師を弁護した、すなわちロイエンタールは反逆を企てている、というものである。
調べてみると、確かに庭師云々のやりとりはあったが、実際は伯爵家がロイエンタールから借金を丸々棒引きにしてもらったのが真相であり、これでは罪を着せるのは無理であろう。
さらに、庭師の行った不敬罪を皇帝に奏上した所「その庭師は正しい事をした」と、無気力なくせに薔薇造りだけは熱心な皇帝が、かえって喜ぶ始末である。
ルドルフ大帝の時代なら少年愛などは処罰の対象であったが、乱れきった今の宮廷では、男同士だろうが女同士だろうが同性の恋人を持つ事など珍しくもなく、そんなことを処罰していたら、宮廷中の貴族を罰っしなければならなくなる。
だが、このまま噂が広がれば、伯爵家、ひいては門閥貴族の対面が丸潰れになる。
リヒテンラーデ侯もブラウンシュバイク侯も、何とか事を荒立てずに沙汰をつけてしまいたかった。
「それで、ロイエンタール様に下った裁定が謹慎処分ですか……」
ラインハルトから事の詳細を聞いたキルヒアイスは、首を傾げた。
「しかし、そんな事をしたら、噂を肯定しているととる者もあらわれるのではないですか?」
「伯爵の申し立てによると、令嬢との婚約はでたらめだし、庭師も何の関係もないらしい。ロイエンタールの罪は宮廷を騒がせた風紀紊乱罪程度のものだ。全くロイエンタールもくだらない事に巻き込まれたものだ、まあ、こんな話が信じられてしまうのも日頃の行いかな」
ラインハルトは金髪を揺らし、笑いをこらえながら言う。
「奴らはロイエンタールの方を罰しておけば、そっちに非があるように見えると思っているのだろうよ。浅はかな事だ」
キルヒアイスは、ラインハルトの考えが手に取るようにわかった。
大の門閥貴族嫌いのラインハルトからすると、ロイエンタールが伯爵家の対面に泥を塗った事が、愉快でならないのだ。
だが、旗下でもっとも優秀なロイエンタール上級大将の謹慎は、ラインハルトに対する嫌がらせでもある。
皇帝の寵愛を受け、異例の早さで元帥になったラインハルトの足を何とか引っ張ろうと、手ぐすね引いている連中ばかりが宮廷にいる。
「おもしろいではないか、キルヒアイス」
ラインハルトは、そんな宮廷内の思惑など、どこ吹く風のようであった。
すっかりいたずらを思いついた時の悪童のような顔になり、目を輝かせた。
「ロイエンタールの謹慎があけたら、その庭師をここに連れて来させよう」
「ええっ!?」
普段は冷静なキルヒアイスが、思わず声をあげた。
「ロイエンタール付きの侍従にしてやっても良い。あいつは少し女遊びが過ぎるから、その少年をお目付け役にしておこう。幸い、皇帝陛下はその庭師がお気に召したようだからお許しが出るだろう」
「しかし……」
「何だ、不満か?もちろんその庭師が嫌がれば、無理強いするような事はしないぞ?」
「それはそうですが……」
「門閥貴族どもがどんな顔をするか、見物だと思わないか?キルヒアイス」
ラインハルトは、妙に晴れ晴れとしている。
最近は戦いもなく、つまらない宮廷行事などに忙殺されているので、鬱憤がたまっているのだろう。
ラインハルト様のいたずらが過ぎなければ良いのだが……と、キルヒアイスは内心では思ったが、いたずらっ子のようなラインハルトの顔を見ていると、何も言えなくなってしまった。
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