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数分後、ウォルフとその父親は、べったりと地面の上に土下座していた。

頭上で、ひゅんっと、乗馬用の鞭が振られ、ウォルフの髪の毛をかすった。
あの鞭がまともに顔にでも当たれば、一生跡が残るに違いない。

伯爵は、鞭を振り回しながら、怒鳴り散らしている。

伯爵家の婦人と、ご令嬢と、さっきメイドから令嬢の婚約者だと聞かされたロイエンタール上級大将が、土下座したウォルフを取り囲んでいる。


ウォルフは、畏れ多くも皇帝陛下の薔薇を切った大逆人という事になっていた。
少なくとも、伯爵はそう断じている。

伯爵は、娘の婚約者に、皇帝から頂いた薔薇を自慢したかったらしい。
派手なドレスを着た令嬢は美人で、ロイエンタールはメイドがはしゃいでいた通り、見るからに堂々としていて実物の方がハンサムだった。
将来はきっと似合いの夫婦になるのだろう……。


だが、彼らを楽しませるはずだった白薔薇、一輪だけ咲いていた花は、さきほどウォルフが摘んでしまっていた。

「古くなった花は摘んでしまった方が、ほかの蕾がよく咲きますんで…明日には別の蕾が開くはずです…」と父親が弁解したが、そんないいわけは誰も聞いていないようだ。

「これでは陛下に顔向けができない、即刻捕らえて不敬罪で牢に送ってやる」と、伯爵はウォルフをなじった。

不敬罪とやらが、どんな罪になるのかはわからなかった。
だが、平民は永遠に貴族に生殺与奪権を握られているのだ。
例え殺されたとしても、文句は言えない。

……こんな事で、人生詰んでしまうなんて……。

庭師としての才能がない事は自覚しているが、あの薔薇に関しては間違った事をしたとは思っていない。
古くなった花は取り除き、少しでも他のつぼみに養分を与えてやるのは、薔薇造りの鉄則なのだ。
それが、何故こうも理不尽に、這いつくばっていなければならないのか。
情けなくて、涙が出そうだ。

こんな事なら、まだ戦場で国のために戦って、命を落とす方がましだった。
たとえ名もない雑兵としてであってもだ。
今、醒めた顔で彼を見下ろしているロイエンタール上級大将は、きっと戦場で英雄のような華々しい人生を送るのだろう。
それに引換え、ウォルフは地面に這いつくばり、貴族のご機嫌一つで簡単に殺されようとしている。
同じ人間なのに、何という違いだろう……。







ロイエンタールの苛立ちは、頂点に達していた。

皇帝陛下の薔薇がないと大げさに騒ぎ立てた伯爵は、庭師を連れてこさせ、執事に乗馬用鞭を持ってこさせて、なぶり始めた。
婦人と娘は高慢な笑みを浮かべて、額を地面につけている庭師の親子を、見せ物のように眺めている。

こんな茶番劇は無視して、とっとと帰ってしまおうかと考えないでもなかったが、放置しておけば、罪もないのにとばっちりを食った庭師がどうなるか知れたものではないと、思い直した。
自分が今日抜き打ちでこの家を訪れなければ、彼らもこんな目にあわなかったと思うと、多少、罪悪感も感じる。

なおも芝居がかった声でわめきたてる伯爵にうんざりして、いっそ薔薇なんぞ根元から引っこ抜いてやりたい衝動にかられたが、皇帝侮辱罪だの不敬罪だのとくだらぬ言いがかりをつけられるのも馬鹿らしい。

だいたいこの庭師は、見れば、まだ少年のようではないか。
おさまりの悪い黄色い髪が、風にふわふわと揺れている。
上の者には媚びるくせに、こんな弱い者を傘にかかって責め立てるのは滑稽ですらある。


伯爵がもう一度鞭を振り上げた時、ロイエンタールはその手を掴んだ。
「その辺でやめておいたらどうです」
「し、しかし、陛下に何とお詫びをしてよいか……」
「明日になれば、別の蕾が咲くと言ってるじゃないですか」
「そのような問題ではないですぞ。陛下の薔薇に鋏を入れるなど何と恐れ多い」

一昔前なら知らず、このご時世にたかが薔薇1本で処罰されるとは思えない。
だが、薔薇について何か言えば、思いこみの激しい貴族どもから皇帝批判ととられる可能性がある。

「とにかく、この庭師を離してやりなさい。何なら……」

俗っぽい話だが、借金の件を持ち出して恫喝してやってもよかったが、そんなことより、これ以上この一族と関わると考えただけで、反吐が出そうになる。

金のために媚びて来られるのも、浅知恵で娘を押しつけられるのも、まっぴら御免だ。

「……何なら、そちらに貸した金はすべて帳消しにしても良い」
「なんですと?」
「あの金で、この庭師の命を買う、という事です」
「ば、馬鹿な事を……」
「そうですか? おたくのお嬢様に使うのと、庭師に使うのと、たいした違いがあるとは思えませんが」

伯爵とその家族が蒼白になっているのにかまわず、ロイエンタールは悠然と懐から取り出した借用書をかざした。

「今後いっさい、この庭師に関わらないと誓ってください。そうしたら、これはこの場で破棄します」

思わずといったように顔をあげた庭師の少年と目があった。
少年の驚きに見開かれた瞳に涙がたまっていた。
その瞳は、空の色を映したような灰青色だった。


伯爵が呆気にとられながらもうなずくのを確認してから、ロイエンタールは書類を引き裂いた。

彼は満足であった。
これで、この不愉快な一族は、庭師だけでなく、自分にも近寄ってこなくなるだろう。

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