少しずつでいい

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「プロージット!」
前線基地の酒場のテーブルでグラスを合わせると、楽器のような繊細な音色が空気を振動させた。

丸みのある大きなグラスの底のバーガンディー色の液体の匂いをまず吸い込み、それから舌に乗せ、ミッターマイヤーは「うまい!」と、感嘆の声をあげた。

グレイの瞳の輝くような光が、その言葉が嘘でないことを伝えている。

さぐるような目を向けていたロイエンタールの口元に、微笑が浮かんだ。
いつもの冷笑ではなく、どこか安堵感を感じさせる笑みだった。

「本当に、こんな、うまいもの、初めて飲んだ」
目をぐるりと回して、ミッターマイヤーは子供のような熱意で言った。

それは、真剣な本音である。
知り合いになったばかりの、この一つ年上のロイエンタールが、夜毎にご馳走してくれるワインは、それまで彼が口にしてきたアルコールとは、全く違った。

まだ二十歳そこそこのミッターマイヤーであったが、アルコールに強いという兆候は以前からあった。
もともと飲酒を許可される年齢になる前から、士官学校では、密かに酒が持ち込まれるのは暗黙の事実で、懇親会などと称したパーティーで、飲み過ぎた下級生が医務室にかつぎ込まれたという例は枚挙にいとまがない。
ミッターマイヤーも、年齢の割には酒に慣れている方である。

とはいえ、ミッターマイヤーのような平民出身者が、これまで口にしてきたものと言えば、大衆的なビールか安物の蒸留酒が精一杯だった。
だから、ロイエンタールが惜しげもなく注文する最高級のワインを口にした時の新鮮な驚きと言ったら、言葉にできないほどであった。


ロイエンタールは、友のみずみずしい頬がワインと同じ紅に染まっているのを、満ち足りた思いで眺めていた。
酒が入っても蒼白のままのロイエンタールとは、体質が正反対だ。

ミッターマイヤーは、酒の味が解る。
この一点だけでも、不信心な常日頃の彼にしては珍しく天に感謝したい気分だった。
ロイエンタールの好むものをミッターマイヤーも喜んでくれる事は、友が少しずつ自分の色に染められて行くようで嬉しい。


だが、空になったグラスに注ぎ足そうとすると、ミッターマイヤーは珍しく躊躇したようにグラスの上に手をかざした。
「……ロイエンタール、すまないが、俺は……」
言いにくそうに口ごもるのを、ロイエンタールは遮った。
「一度開封してしまった物を残してもしょうがないさ、このボトルは今夜中に全部空けてくれ」
「うん、そうだけど……」
皆まで言わずとも、ミッターマイヤーの言い分はわかる。

値段が、ミッターマイヤーが今まで飲んできた酒とは桁が一つ、下手したら二つ違うのだ。
年齢と身分の割に高い地位にいて、両親の家業も順調なミッターマイヤーには、比較的自由に使える金がある。
それでも、ロイエンタールが生まれながらに持ち得たものとは比べものにならない。

これまでロイエンタールは、自分と周囲の経済格差を考慮して、一人の時以外は滅多に高級なものは頼まなかった。
味覚の水準を落としたくはなかったが、軍隊暮らしは不自由なものだという事も理解していた。

だが、今は、自分の好みの物を頼んでも嫌な顔をしない友がいる。
そして、ミッターマイヤーにもうまいワインを飲ませてやりたい、うまい物を食わせてやりたいと思う。
誰かと分かち合うからうまいのだ、と口に出してしまうのは気障だろうか。
だが、この友と出会って、初めてそんな柄でもない事を考えるようになったのも事実である。

かといって、ミッターマイヤーの懐具合を無視してばかりもいられない。
高いワインもロイエンタールが「自分が飲みたいから」と、頼むのだが、半分はミッターマイヤーのグラスに注がれる。
それを甘んじて受け入れているようなミッターマイヤーでもなく、必ず半分は自分で持とうとするのだ。

「出世払いでいいさ」
いつものように言うと、ミッターマイヤーは対等でない事を恥入っているかのように、ますます頬を紅くする。
負い目を感じさせたようで申し訳ない反面、いつもは快活な彼がそんな譲らない誇りを見せると、ロイエンタールは自分でも戸惑うほど気持ちが揺れるのを感じる。

ミッターマイヤーは、真っ直ぐで潔癖だった。
不器用なほど潔癖で、その潔癖さは、将来彼自身を深く傷つけるかもしれない。
その時、自分は彼のために何をしてやればいいのだろう、とロイエンタールはふと考える。

「じゃあ、今回は、な?」
小声でミッターマイヤーがうなずき、照れくさそうに前髪をいじる。
おそらく彼は義理堅くずっと覚えているに違いない。


明るい蜜色の髪に、ロイエンタールはしばし見とれる。
彼の一族にはいない明るい色だ。
自分とミッターマイヤーは、何から何までまるで正反対だった。
おそらくこの先も、完全に融和する事はないだろう。
それでも同じ酒を飲んで、少しずつお互いの事が解ってくる。
少しずつ色が染まる。

とりあえず、いつの間にか、酔いに負けて、気分良さそうにうつらうつらし始めた向かいの席の友をどうしようか、というのがロイエンタールの当面の関心事だ。
早く、肩を貸して、送って行ってやらなければ。


けれど、幸せそうな友の寝顔に、しばらくはこのままでいたい、と思うのは、空気で酔いが伝染したからだろうか。
 

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