砂の城 4

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ウォルフガング・ミッターマイヤーが多くの人に見せる顔は常に毅然としており、その態度は明快で裏表が一切なく、気持ちの良いものであった。
陰ったものや後ろ向きの感情を、この父から見いだすことは難しいと誰もが思っていた。


そんな父がどこかで抱える悲しみに、なぜフェリックスはそんなに敏感であり、どこかで共鳴するように惹かれていたのか。
生まれる前から宿命づけられていた事、過ぎ去ったと思われたものが、彼の周囲のそこかしこにどんなに走ってもついてくる影のように潜んでいた。
しかし、幼い頃の彼はそんな事に気づきもしなかった。

父は忙しく、母のように常時顔をあわせていた記憶はない。
常に側近に取り巻かれ、たとえ家でくつろいでいる時でも、何かが起きると昼夜問わずすぐに出かけていった。
公務がすでに彼の私であり、父の私の部分はすべて帝国に、この王朝に捧げられていた。
幼いフェリックスは、小柄ながら美しく背筋の伸びた、試技に向かう運動選手のような父の背中ばかり見ていたように思う。

それでもたまの休みの日には、庭のデッキで母の手料理を囲んでピクニックのような事をしたり、書斎で本を読み聞かせてくれた。
母と共にいる父は、快活で安らいでいた。
家族の時間はなごやかで、人が失ってからそのありがたみに気がつくような平凡な穏やかさが常に漂っていた。
それは時々不意にやってくる。
書斎で本に目を落とす父、生温かな風のある春の宵に星空を見上げる父が、ふとした瞬間に隙をつくったように、肉眼で見えない遠い場所を見ているかのようにわずかに眉を寄せ、瞳の色が揺れたかと思うと翳り、まつげを伏せる。
もしかしたら、微風で髪の一筋が乱れるくらいの誰も気づかないほどの、ほんのかすかな変化だったのかもしれない。

そんな時フェリックスは、父が自分とは違う世界、自分の声の届かない場所にいるような不安を覚え、その不安をかき消すように父のシャツの袖を引いた。
そうすると父は夢から醒めたようになり、傍らの息子のもの問いたげな顔に気づいて、おぼろげに煙るグレイの瞳を情感をこめて細めた。
透き通るようなその微笑が自分に向けられる瞬間を、フェリックスは心待ちにしていた。
甘い張りのある声で呼んでもらい、温かな掌で髪を撫でてもらうのが、何よりも好きだった。
父の微笑は、全ての不安を消し安寧をもたらしてくれた。
幼い彼にとって、父は自分を導く灯台の火であり、何者にも侵されない存在であり、理想であった。
多くの大人達のように自らを飾ることなく、何事にも真摯に向き合い、率直にそれでいて道を示してくれる父。
父の姿を見ていれば、自然とその期待に答えたくなる。
事実フェリックスは、父にふさわしい人間になりたくて懸命だった。



成長するに従い、フェリックスは父の悲しみのわけを徐々に知る事になる。


初めてそれに気づいた日は、フェリックスの記憶に鮮明に残るものとなった。


まだ学校にあがる前、皇宮でのことだ。

その午後、フェリックスは、プリンツ・アレクや、その友人として選ばれていた数人の少年たちと共に皇宮の東側の庭園で遊んでいた。
その日はフェリックスにとり、特別な日だった。
父・ミッターマイヤーが、皇母ヒルダと会見するために皇宮の奥の間を訪れていた。

少年たちはいずれも高官の子息たちであったが、フェリックスの父が来ていると知るとみんな一斉に浮き立ち、興奮をあらわにした。
獅子の泉の主席元帥、帝国が誇る至宝、かつて疾風ウォルフと呼ばれた勇将は、同じような功臣を父に持つ少年たちにとってもっとも憧憬の象徴となる人物だった。
口々に父の武勇を挙げてゆく少年たちの声が耳に入り、フェリックスは誇らしさにはちきれそうになっていた。
この、誰からも尊敬される素晴らしい人が、自分の父親なのだ。

しばらく追いかけっこなどをして夢中で遊んでいるうちに、フェリックスは庭園の東端にある食料庫の近くまで来ていた。
そこには、フェザーンの市場から食料を運んできた青年達が数人、立ち働いていた。
仲間達とはだいぶ離れた所に来てしまった事に気づいたフェリックスは、慌てて引き返そうとした。

「……国務尚書様が……」
小麦の入った麻袋を運び込む青年達の会話が、漏れきこえてきた。
思わずフェリックスは、石造りの倉庫の陰に身を隠した。
青年達はみな労働者らしい素朴な服装をして、言葉にはフェザーン人特有のアクセントがあった。

「………が来ているんで、いつもより警戒が厳重らしいぜ」
身分証の提示がいつもより厳しいと、一人が愚痴をこぼす。
「疾風ウォルフは、えらい人気だからなあ」
一人の言葉に、フェリックスは小さく会心の笑みを漏らした。
誰もが父の事を尊敬をこめて口にする。

「……あの人は俺たちと同じような平民の出だってのに、うまいことやって今じゃ帝国で一番の権力者におなりだ」
「俺たちとは出来が違うんだろ」
「俺たちにはまねできない、って事だろ。双璧の片割れを討って今の地位を手に入れたんだぜ」

そこまで聞いて、フェリックスはびくっとなった。
頭に血が昇り、息が止まった。
いつの間にか、彼を捜していた数人の少年達が後ろにいた。
「どうしたんだよフェリックス、早く戻ろうぜ、アレク殿下がおまえを探してるぞ」というのを、しっと片手で口元を押さえ、黙らせた。

青年達はフェリックスに気づかず、麻袋に腰を下ろして噂話に興じている。
「あの頃、おやじ達は集まっては賭をしてたなあ。疾風ウォルフとロイエンタール元帥、双璧のどちらが勝つかって」
「命令とはいえ、長年の親友を討つなんてたまらんだろうなあ」
「そりゃあ叛乱軍に味方するわけにもいかんだろう。まあ誰が上にいようと俺たちの暮らしは変わらんけどな」
「あの頃ロイエンタール元帥の相手になるのはミッターマイヤー元帥ぐらいのものだった。あの人が行かざるおえなかったのさ」
「とにかくミッターマイヤー元帥は強かったよ、あっという間に鎮圧したんだから。あの人が出なかったら今頃帝国はまだ混乱が続いていたかもしれんな」
「良くできた人だぜ。お人好しにも反逆者の息子を育ててやってるらしいしな」

だがそのうちの一人は、あくまで国務尚書が気に入らないのか、揶揄するような口調になった。

「だから平民からのし上がるような奴は普通の人間とは神経が違うのさ、普通の人間は親友を殺してまで、権力の座にしがみついたりはしない。疾風ウォルフだのと祭り上げられて聖人君子みたいな顔をしてるが、本音じゃ権力が………」

その青年は最後まで言うことはできなかった。

「父さんの悪口を言うなっ」
壁の陰にいたフェリックスが飛び出し、青年の胸ぐらに飛びかかったのだ。
年端も行かぬ子供がいきなりぶつかってきたものだから、青年はもんどり打って砂利だらけの地面に倒れ込む。
彼のかぶっていた革のキャスケットが空に飛んだ。

「よくも父さんを侮辱したなっ。父さんはそんな人間じゃないっ」
フェリックスは青年に馬乗りになり、思い切り容赦のない力で何度も打ちすえた。

子供の力だ、はね退けようとすればできただろうに、のしかかられた青年は、明らかに身なりのいい子供、今まで噂していた主を「父さん」と呼んでいる子供に、呆気に取られている。
青年の仲間たちは青くなり、ただそこで互いに肘でつつきあい、気まずい顔を見合わせていた。

騒ぎを聞きつけて侍従が走ってくるまで、フェリックスは回りの声も音も何も耳に入っていなかった。
それまでフェリックスは、父を悪く言う人間がこの世に存在しているなどと想像だにしてこなかった。
父を知りもしない人間が、勝手な事を言うのが許せなかった。
その時フェリックスの脳裏にあったのは、父が時折見せる、どこか放心したような寂しそうな笑顔だけだった。
皇宮の美しい新緑が、フェリックスの空の色を映した目の奥でにじんでいた。


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