砂の城 2

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月に何度か、フェリックスは母に連れられて宮殿にあがった。
それは、まだ自分で立ち上がる事もできず意味のある言葉を発する事もできぬうちから、彼に課せられた“職務”であった。

待っているのは、皇帝・アレクサンダー・ジークフリート・フォン・ローエングラム。
フェリックスは、誕生したばかりのローエングラム王朝の二代目皇帝の遊び相手であり、親友である。

フェリックスの幼い記憶にある皇宮は常にものものしい警戒体制で、何をするにも窮屈という印象だった。
たくさんの部屋も広い庭園も自由に行き来する事ができず、大勢の侍従や兵士に監視されていた。


プリンツ・アレクは豪奢な黄金の髪とアイスブルーの目を持つ、生まれながらに天上の全ての神に愛されているような美しい少年だった。
そして、彼は、生まれながらの皇帝だ。
幼い頃から宮殿の広間を埋め尽くす家臣たちにかしづかれ、ごく自然に人の上に立つ人間として教育され、だからこそ本人はその事に無頓着で無邪気だった。
きまじめな反骨心と野心を持って宇宙を手に入れたいと願った先帝とは、そこが決定的に違った。
生まれながらに精神物質両面で恵まれ、全てを手中にした存在だった。

先帝の浮き世離れした天才とカリスマ性は今でも語り草であり、歴史上の人物として書物や記録の中だけの存在になってなお多くの信奉者がいる。
アレクは父から華麗な美貌は受け継いだものの、感覚的には普通の少年のような部分を多分に持ち、高貴な人の常で当然のように周囲を振り回しながら、その性質はいたって素直であった。
彼が成人した後は、おそらく民衆に近い、親しみやすい皇帝となるだろう。

アレクの周囲には、大勢のおとながいた。
親衛隊長のギュンター・キスリングをはじめ、数十人に及ぶ家庭教師や、美術や音楽の習い事の師匠、仕える女官たち……いずれも先帝に心酔していた者たちで、アレクに過保護といえるほどの態度で接していた。
中でもアレクのお気に入りは、侍従頭をつとめるエミーレ・フォン・ゼッレで、これはアレク付きのスタッフたちの中で年がもっとも若かったせいだろう。
エミーレは医科大学で学ぶかたわら休むことなくアレクの側に仕え、後に皇帝の専属医師となった。

こうした大人たちに囲まれてはいても、やはり同年代の少年たちと一緒にいるのがアレクは好きだった。
他の政府高官や提督たちの子女がお相手にあがる事もあったが、幼帝の一番のお気に入りは国務尚書の子息フェリックスだ。

フェリックスから見ると、アレクは、大事に大事に育てられた、甘えたがりな、弟のような存在だった。
この皇帝のために忠誠を尽くせよと常に教育されてきたが、仰ぎ見るような遠い存在ではなく、どちらかというとフェリックスが庇護してやるような対象に思えた。


大きくなり自由に動けるようになると、アレクはフェリックスと一緒に屋敷を抜け出す事が最大の息抜きで、何よりの楽しみとなった。

行き先はフェリックスの家である。
宮殿の茂みを越え護衛の目をくらませて泥だらけになって飛び込んでくる二人を、母のエヴァンゼリンはいつでも笑顔で迎え入れた。
顔の泥を母に拭いてもらい手を洗った後には、庭のテラスに用意されたミルクティーと手作りのケーキやクッキーをもらえるのだ。
期待値ゆえの小言を聞かされて育ってきたアレクは大人から説教されるとうんざりした顔を隠さなかったが、おっとりとしたエヴァンゼリンには素直に懐いていた。
宮廷の女官と違い母は難しい事は何もいわなかったが、ただ二人の腕白が過ぎるときは、子鹿のような目を驚いたように見開いて、次に少し悲しそうなに微笑むと「そんな事はしちゃだめよ」と軽くたしなめた。
そんな顔を見せられた二人は多いに反省し、二度とエヴァを悲しませないと誓うのだった。
目をくらませたといっても二人がこの家に駆け込んでくるのは分かっていたから、しばらくたって親衛隊長が迎えに来ると、アレクは渋々とまた宮殿に戻っていった。

「不思議だよなあ、母上とエヴァはあんなに正反対なのに、どうしてか気があうんだ」
エヴァがフェリックスのつきそいで宮殿にあがり皇母の部屋に招かれ入って行く時、それを見送るアレクはよくそう言って首を傾げた。

アレクの母、皇母ヒルデガルドは長身でとても美しかったが、情より理性が勝るような堅苦しい所があり、どこか近寄りがたい存在だった。
母親というより、どことなく威厳のある男親に近い。
実際、彼女は、皇宮の奥で息子と過ごすのと同じくらいの時間を、国の政治的中枢のある獅子の泉宮で過ごしていた。
この時期、幼い皇帝にかわり国を動かしていたのは、フェリックスの父ミッターマイヤーと、間違いなくこの皇母だった。
いつまでも少女のようだと評され、細かい家事を燕のように軽やかにこなすエヴァンゼリンとは、正反対である。
幼かったアレクはヒルダ妃が実母ゆえに息子に厳格な態度で叱ったりすると大声で泣き、エヴァの子になりたいと駄々をこねる事があった。
もちろん本気ではなく実の親子ゆえの甘えた物言いで、アレクも気が済むとすぐにそんな事を忘れたようにけろりとしていたが、それはフェリックスにはとうてい言えないような言葉だった。
もっとも彼は、エヴァ以外の息子になる事を考えもしなかったが。
何にせよ自分の母が、皇帝アレクにも好かれていることが、フェリックスは誇らしかった。

「ねえ母さん、アレクは自分の母上より、ぼくの母さんの方が好きみたいだよ」
ある時、フェリックスはこっそりと母に耳打ちをした。
するとエヴァは、菫色の瞳を優しく細めて、フェリックスの頭を撫でた。
「アレク殿下があのように素直でご立派にお育ちになったのはあの方のいらっしゃったからよ。ヒルダ様はわたくしよりもずっと大きな事をなさっているの。あなたにもそのうちわかる時がくるわ」
フェリックスは、両目をしばたかせながら、母を見上げた。

宮廷の着飾った女たちの誰よりも、飾り気のないドレスに身を包んだ小柄な母が美しいと思っていた。
ごく幼いうちから多くの大人に会い宮廷に出入りしていたおかげで、フェリックスは虚飾を見抜く目を自然と備えるようになっていたが、母からはそのような匂いはいっさい感じなかった。
フェリックスの持つ母のイメージは、よく晴れた青空の下で何枚ものシーツを干している姿、夏の庭で花々の手入れをしている姿、白いつばのある素朴な帽子からのぞくクリーム色の髪、春のひだまりのような笑顔だ。

エヴァは、彼に幸福という名を与えてくれた人だった。
幸福そのものも与えてくれた人だった。
そして、いつでも幸福に包まれているようなエヴァンゼリンという女性が抱えていたもの、彼女が何に耐えてきたのか、彼女の持つ芯の強さをフェリックスが理解するのは、もう少したってからの事だった。

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