空中庭園 3

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ベーネミュンデ侯爵夫人を取り押さえているミッターマイヤーの鍛えられた物腰は、まったく無駄がなかった。
実際、宴に集まったどの紳士淑女の動きよりも美いくらいだ。
「無礼な……」
ベーネミュンデ侯爵夫人は、恐れを知らぬ目をした小柄な士官を、氷のような冷たい目で見つめている。


次の瞬間、水棲動物がゆっくりとまばたきするように、彼女の黒い瞳が細められた。
無礼な闖入者であるミッターマイヤーをひたと見据えながらも、珍しいものを値踏みするように上から下までなめるように見回す。
先ほどまでの周囲を消し去ろうとでもするような歪んだプライドを内包したものから、一転、新しい玩具に興味をかきたてられたかのような、残忍な子供の目つきになっているのだ。
捕食者が新しい獲物を見つけたときの目だ。
無抵抗を貫いてかえって彼女のプライドを傷つける女を相手にするよりも、真正面から闘争心に火をつけ、思う存分狩りを楽しめるイキのいい獲物が、目の前に飛び込んできたわけだ。


ロイエンタールとしては、これ以上放っておくわけにはいかなかった。
ベーネミュンデ侯爵夫人の、グリューネワルト伯爵夫人に向かけられてい憎悪が、ミッターマイヤーへの興味へとすり替わりつつあるのだ。
何とか注意を逸らす必要がある。
ここはもはや、ミッターマイヤー式に真正面から騒ぎの渦中へと身を投じるしかない、と彼は観念した。

「ベーネミュンデ侯爵夫人、ロイエンタール少佐です」
大股で広間を横切ったロイエンタールは、大声で名乗りをあげた。
そして、少々尊大に見える優雅な会釈とともに、ベーネミュンデ侯爵夫人の前に立ちはだかる。
「ご不満がありましたら、あちらの部屋でお伺いしますが」
しかし、一度燃えさかった情念の炎を消す事は至難の技である。
ベーネミュンデ侯爵夫人の青白い顔はますます歪み、黒い瞳はきらきらと残忍な輝きを閃かせる。


結局、退出しかけたグリューネワルト伯爵夫人と、このパーティーの主催者たるリヒテンラーデ侯が間に入り、ベーネミュンデ侯爵夫人は別室へと移された。

ロイエンタール、ミッターマイヤー両名が、その場で警護の任を解かれたのは言うまでもない。
リヒテンラーデ侯の顔には、招待してもいない、彼にとってはやっかいでしかない過去の遺物のような元寵姫と、作法を知らぬ無粋な士官によって、パーティーを台無しにされた苦々しさが浮かんでいた。
広間には、最初のファンファーレの割には大したことなく終わりを告げたショーの余韻と、少し白けた空気が漂っている。



この騒動はすぐに兵舎中に広まり、首都で暇を持てあましていた兵士たちの間で、ロイエンタールとミッターマイヤーの勇姿は、誇張を伴っておもしろおかしく喧伝された。
二人には、何らかのお咎めがあると誰もが考えた。
かつての輝きを失ったとはいえ、皇帝の寵姫である婦人に無礼を働いたのである。

ロイエンタールも、当然、ある程度の処分を覚悟していた。
まあ、あまりに理不尽なものをおとなしく受け入れる気はなかったが。
自分の何がいけなかったのかまるで理解していなかったミッターマイヤーには、こんこんと宮廷の作法を諭してやり、さすがにこの「堅物の平民」も、自分がいかに粋を解さない無骨者であったか理解したようだ。
童顔を真っ赤にして恐縮しているミッターマイヤーを左右の色の違う目でちらりと見やり、そのうち宮廷風の作法を少しはレクチャーしてやらねばと、ロイエンタールは記憶の奥に書き留める。

もっとも、これは完全なるリヒテンラーデ侯の人選ミスである。
どこからか、軍の名物コンビである二人組が剛毅の士であるとかいう噂を聞きつけてきてこのような任務に着かせたのだろうが、平民出身の優秀な前線指揮官を、ノイエ・サン・スーシという伏魔殿の警護にあてるなど、無駄遣いのなにものでもない。
しかし、あのパーティーの雰囲気を見るに、ミッターマイヤーほど権力にも屈せず非を正すことのできるクソ真面目な者でないと、腐敗しきった宮廷の秩序を守ることはできないのかもしれない。
あの場の誰も、さっきまでおべっかを使って取り入ろうと躍起になっていた者ですら、グリューネワルト伯爵夫人がいたぶられるのを止めようとはしなかった。
むしろ、意地の悪い笑いを浮かべ、刺激的なショーのように楽しんでいたのだ。
 
 


ところが。
数日後、リヒテンラーデ侯より申し渡されたのは、ロイエンタール、ミッターマイヤー両少佐が、グリューネワルト伯爵夫人アンネローゼを立派に警護した事への皇帝陛下のお褒めの言葉、それに伴う両名の昇進であったのだ。
併せて、引き続き、グリューネワルト伯爵婦人の警護をせよ、という勅命まで下された。
親衛隊しか出入りできない後宮への出入りを許されたのだ。

これを二人に告げたリヒテンラーデ侯は、老練な顔つきを複雑そうにしかめていた。
侯は宮廷政治のパワーバランスを巧みに利用し、その地位を築いた男と評判である。
要するに、今回の沙汰は皇帝のグリューネワルト伯爵夫人への偏愛ぶりだけでなく、ベーネミュンデ侯爵夫人の完全な敗北、下士官にすら劣る彼女の宮廷での立場がはっきりとした形となって宣言されたということなのだ。
その事に気づかないリヒテンラーデ侯ではない。


「後宮の警護、謹んでお受けします、早速明日にでもグリューネワルト伯爵夫人の元へお伺いいたしましょう」
目を丸くしているミッターマイヤーを強引に共に平伏させると、ロイエンタールは、堅物の平民が何か言い出す前にさっさとリヒテンラーデ侯の執務室から連れ出した。



「おい、どういう事だ」
ミッターマイヤーは、命拾いをしたことを喜ぶよりも先に、ロイエンタールに食ってかかった。
「なぜ、お断りしなかった!?」
「何をだ?」
怒りに頬を紅潮させている僚友に向かい、ロイエンタールはすっとぼけて見せた。
本当にきかん気のない男だ、と半ば呆れながら。
「何を、じゃない、グリューネワルト伯爵夫人の警護だよ、何で断らなかった!」
先日の騒ぎがよほどこたえでもしたのか、それとも貴婦人の警護などという肩のこる任務はこりごりなのか、ミッターマイヤーは潔癖な灰色の瞳を、まっすぐにロイエンタールに向けてきた。
ロイエンタールは口元で小さく笑うと、やれやれと肩をすくめる。

出世のためにグリューネワルト伯爵夫人に取り入ろうとする者は列をなしている。
そいつらが直々にグリューネワルト伯爵夫人の館に入れる権利を得たらどれほど有頂天になることか、それがこの疾風ウォルフにはいっさい通じないときている。
 

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