空中庭園 4

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 その庭は、まるで天空に浮かんでいるようだった。
 はるか眼下に小さくおもちゃのように、オーディンの街並みが見える。
 ……そして誰かの見た夢のように美しかった。
 豊かに生い茂る緑、咲き誇る色とりどりの花、手入れを欠かした事のない青い芝生、遠くから聞こえる川のせせらぎ、愛らしい小鳥の鳴き声。
 非の打ち所のない風景画だ。
 
 メイドが煎れる紅茶から立ち上る湯気を前に、ミッターマイヤーはそわそわと下士官のようにあたりを見回した。
 だがその様子を女主人は失礼ととらず、初々しい緊張の表れと好意的に解釈したようで、口元には穏やかな笑みを浮かべている。
 豪奢な事には慣れているロイエンタールでさえ、内心で瞠目していたほどだ。
 本物の、皇帝の権力。
 そしてひとりの女に向ける、莫大な質量の愛情。
 ただ金にあかせて飾りたてただけでこの庭はできあがらない。慎ましやかで計算し尽くされた居心地の良さがここにはある。もっとも、この居心地を演出するのに、どれほどの費用と人の手がかかっているのかは想像に難くはないが。
「遠慮なさらないで召し上がってください。用意したものが無駄になりますわ」
 庭の主・グリューネワルト伯爵夫人アンネローゼが、鈴を振ったような声で、手づくりのケルシーのパイを勧める。自らの料理を客に供する伯爵夫人は、元はと言えば下町の貧乏貴族の出だということを思い起こさせる。
 ロイエンタールもミッターマイヤーも、どこまでその好意に甘えてよいのか、まだ判断をしかねていた。


 渋るミッターマイヤーを説き伏せ、強引に連れてきたのはロイエンタールである。
「これは、皇帝陛下の勅命だ。グリューネワルト伯爵夫人の警護をせよ、との仰せなのだ。逆らう事は許されんのだぞ」
 ふだん、皇室への敬意などこれっぽっちも持ち合わせていない男が、それを盾にしているのを、ミッターマイヤーはキッと睨みつけた。
「そんなの社交辞令で仰られたようなものだろう、俺たちの本来の任務はそのような事はない」
「そう言うな、せっかくのチャンスだ、麗しの姫君のご尊顔を間近で拝したいではないか。何しろパーティーでは誰かさんの起こした立ち回りのせいで、俺たちは早々に追い出されてしまったのだからな」
 押しつけがましさをこめて先日の礼儀を欠いた行為を指摘してやるとミッターマイヤーはバツが悪そうな顔になり、もう逆らわなかった。
 不思議な事だがくどくどと理由をつけるよりも『美しい女のため』といういいわけが一番通じる。誰にでも通じる真理だからだろう。
 ……権力闘争に巻き込まれそうなお前の身が心配だからだ、とはおくびにも出さず、ロイエンタールはずっと軽口を叩く風を装っていた。
 さらにうまく行けば、グリューネワルト伯爵夫人の弟のラインハルト・フォン・ミューゼルという男の器量を見極められるかもしれないという狙いもあった。
 今後のためにも、ラインハルトとは顔つなぎをしておいて損はないだろう。
 ロイエンタールとしては、辺鄙な前線基地を転々とするのも、つまらない社交場の警護を押しつけられるのも、そろそろ御免被りたいのだ。
 だがミッターマイヤーは、そんなことは知らなくて良い。
 宮廷の道理を理解しないわけではないがそれを利用するのを良しとしない友人と共に階段を昇るには、多少強引な手を使わないと埒があかないと、ロイエンタールはとっくに悟っている。
 後宮という未知の領域に、こうして二人は足を踏み入れた。
 そこは想像を絶する楽園だった。

 緊張でロボットのようにぎこちなくなっているミッターマイヤーをよそに、ロイエンタールは饒舌だった。
 ミッターマイヤーをからかうネタは、常時いくらでも用意してあるのだ。
 そして皇帝の寵姫といえど、彼にとってはただの女だった。
 女を必要以上に神秘のベールにくるみ、もったいぶるような趣味はなかった。
 ロイエンタールの話に、グリューネワルト伯爵夫人は控えめながらも良く笑った。
 その気になれば彼は女性の喜ぶような事をいくらでも言えるが(もちろん心はこもっていない)、ミッターマイヤーのネタとなると口調はいくらでも滑らかになる。
 定番の黄色い薔薇のプロポーズのくだりが、伯爵夫人のお気に入りのようで、花言葉に関するさまざまな知識を自分から披露した。
 グリューネワルト伯爵夫人と言えば、常に寂しさをまとったような物憂い雰囲気を漂わせながら、皇帝の後ろに隠れるようにしている温室の薔薇のようなイメージが宮廷には浸透していた。
 しかしさりげなく料理を勧め、聞き上手な女主人の役割を果たすアンネローゼの姿は、意外にも風に揺れ形を替えながらも折れる事のない葦のような芯の強さを秘めているようにロイエンタールには感じられた。
 こんなに笑うアンネローゼ様を見るのは久しぶりだと、侍女がこっそりロイエンタールに教えてくれた。
 それでも、ときどきグリューネワルト伯爵夫人は、白昼夢を見ているようなどこかぼんやりとした目をしていた。
 会話の中で、彼女は何度か、何かと帝国中を騒がせている弟・ラインハルトの事を話した。
 弟とその親友が、ロイエンタールとミッターマイヤーの関係に似ていると言うこと。これはロイエンタールもミッターマイヤーも、自分たちは親友などという大層なものではなくただの腐れ縁で一緒にいるだけだと即座に否定したが、二人が声を揃えた時のアンネローゼはなぜか楽しげであった。
 そして、弟とも仲良くなってほしいと別れ際に頼んだ。
 その時の彼女の姿は、どこか夢の中のように、薄いもやがかかった美しい黄昏を思わせた。


「とてもたおやかで、陛下が大事にされるのも無理はない女性だな!」
 苦手な宮廷の女性の前にでるという事で最初は萎縮しきっていたミッターマイヤーも、アンネローゼの人となりには感銘を受けたようだ。特に料理上手という所が気に入ったらしい。
「そうだな……それに本当にお美しい」
「おい、バカっ、なんて失礼なことを!」
 天上人を生身の女性の地位まで引きずりおろした上に、懸想していると誤解されかねないような事を平気で言うロイエンタールに、ミッターマイヤーは目をつり上げた。
 だが、その時のロイエンタールは別のことを考えていた。
 グリューネワルト伯爵夫人が記憶を辿るように夢見るような目をしていたとき、あれはいったい誰のことを考えていたのか。
 彼女の庇護者である皇帝か、遙か宇宙を駆けている弟か、それとも誰か別の恋しい男の姿を思い描いていたのだろうか。
 女というものは、決まった男の腕に抱かれながら、別の男の事を考えられる生き物だという事を、ロイエンタールは嫌と言うほど知っている。
 愛などというのは幻想にすぎないことを、一番理解しているのは他ならぬ宮廷人たちだ。
 永遠の誓いも愛の暖かさも、彼らは求めない。
 ロイエンタールの周りではそれが当然だった。
 愛し合って結婚するということ自体、奇妙な事なのだ。
 グリューネワルト伯爵夫人も同様なのだろう。
 皇帝からの寵愛の絶頂にありながら、どこか未亡人然としている彼女は、いったい今まで何をいくつ諦めてきたのだろうか。
 女の事など少しも解っていないミッターマイヤーが、無邪気にアンネローゼを称えるのとは逆に、ロイエンタールの中の醒めた気分が増幅して行く。
 ミッターマイヤーは知らない。女がその背後にどれほどの醜い業を抱えて生きているのか。
 グリューネワルト伯爵夫人アンネローゼも、今となっては妄執の中に生きているベーネミュンデ侯爵夫人シュザンナも、また同じ女という生き物だとミッターマイヤーにはおそらく永遠に理解できないだろう。
 それでもベーネミュンデはまだましだ、たとえ歪んだ独りよがりであろうと、一人の男を愛し続けたのだから。
「……どうした?」
 黙り込んでしまったロイエンタールに、ミッターマイヤーが声をかけた。
「いや……」
 ロイエンタールは横にいる『悪友』のまっすぐで負けん気の強い眼差しが少し眩しく、彼にしては珍しく目を逸らした。
 ミッターマイヤーの瞳の先に自分がいるという奇跡。
 それを、この蜂蜜色の髪の『堅物の平民』は、何もわかっていない。
 ただ隣にいるだけで、それがどれほどロイエンタールを揺り動かすのか、全く理解していない。
 こいつのために、宮廷内で、宇宙艦隊内部で、ロイエンタールはどれだけ気を使ってきたのだろう。
 それでもこんな石頭は放り出してしまえばいいのになどとは、不思議と一度も考えたことはなかった。
 いったいおまえは俺のなんだというのだ……。
 ロイエンタールは奇妙な感慨にとらわれた。
 ミッターマイヤーの融通のきかない不器用さ、人工的なものも企まれた所もない無垢さ、温かさ。
 その全てを、そのままの形で、ロイエンタールは自分の傍らに置いておきたかった。
 そのためにどんな残酷な事でもする自分に気づいている。
 不意に、ロイエンタールは老境の皇帝に思いを馳せた。
 救いを求めるように楽園のような庭をつくりあげ、そこに唯一の夢の名残りを閉じこめた、孤独な男。
 アンネローゼが皇帝に捕らわれ閉じこめられた駕籠の鳥だとしたら、皇帝もまた一人の女に捕らわれている。
 そして、誰かを閉じこめてしまわねばならないその弱さ、それをどうしようもできない事をロイエンタールもまた知っていた。
「ロイエンタール…?」
 優しい友の声を聞きながら、ロイエンタールは色の違う双眸で空を見上げた。

 ……天空の庭の姫君は、今ごろその憂いの瞳に何を映しているのだろうか。 

 そして、自分はいつか解き放てる日が来るのだろうか、隣にいるこの友を。
 それともいつか、耐えきれずに引き裂いてしまうのだろうか。

「そうだな、そのうちまた、あの庭に、麗しい方のご機嫌伺いにお邪魔するとするか」
 ロイエンタールの言葉に、ミッターマイヤーは懲りない奴だと肩をすくめる。
「次は、俺をネタにするのはナシだぞ?」
「俺はただ、美しい女性に会いたいだけさ」
「またふざけた事を…これだから女ったらしは…!」
 見る見るふくれっつらになる友に向かって、ロイエンタールは空を映した瞳で笑った。
 
 


end
(2013.08.20~2014.04.08)

 

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