空中庭園 2

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さて、その夜、ロイエンタールも、ミッターマイヤーも、戦場とはほど遠いこの場所で、彼らの本職とはかけ離れたパーティーの警護という退屈な任務を淡々とこなしていた。
まさかこのあと派手なショーが始まるとは知らずに。



ショーの幕開けに、まずグリューネワルト伯爵夫人アンネローゼが、慎ましやかに入場してきた。

皇帝の寵姫として今をときめくグリューネワルト伯爵夫人だが、華やかな場所を好まずパーティなどにも滅多に出てこないと言われる。
そんな彼女が珍しく姿を現したものだから、広間で笑いさざめいていた者たちは、すぐに耳目をそばだてた。
グリューネワルト伯爵夫人は、黄金の髪をシンプルに結い上げ、清楚な白いドレスに身を包んでいた、
たとえ控えめに広間の隅に佇んでいるだけでも、その姿は白百合のような美しさと気品に満ち、贅の極みを尽くした宮殿の飾りがかえって白々しく映るほどだ。
老いた皇帝が今やこのグリューネワルト伯爵夫人一人を寵愛し、皇宮の奥で鳥かごに囲うように住まわせている事は、公然の事実である。

彼女が姿を見せると、何とか皇帝に取り入ろうとする者たちが、砂糖の匂いをかぎ分ける蟻のような貧欲さで集まり、すぐさま人垣ができた。

しかしグリューネワルト伯爵夫人は、あまりこの宴を楽しんでいるようには見えなかった。
下心に満ちた挨拶を受けるたびに「わたくしは陛下のご命令で顔を出しただけですので……」と言葉少なに言い訳し、戸惑いと憂色を浮かべた顔で俯いているばかりだ。
彼女の周りに集まる一部のあつかましい嘆願者を除けば、この広間に集まった貴族たちが彼女に向ける視線は、どれも毒を真綿にくるんだような厳しいものばかりだった。
妬み、やっかみ、その出自への侮蔑……そういった複雑な感情が、声には出さずとも、上品さを装った目つき、声の中ににじみ出ている。
もっともグリューネワルト伯爵夫人一人の身なら、このような反発は生まれなかったかもしれない。
実際、彼女は権力や富を欲しがるでもなく、ただ老いた皇帝の身の回りの世話を甲斐甲斐しくしている、おとなしい女性であると評判だった。

問題は彼女の弟…ラインハルト・フォン・ミューゼルである。
まだ10代のこの若者は、皇帝の寵姫の弟と言う立場を利用し、軍では驚くほどのスピードで昇進を果たしている。
また、行く先々の戦場で、抜擢に見合う、いやその予想を遙かに上回る結果を残しているのだ。
ラインハルト自身も、何かに急ぐように与えられる地位には貧欲であった。
こうなると面白くないのは軍で利権をむさぼってきた貴族たちで、彼らの間でラインハルトは「金髪の儒子」という蔑称を奉られ、忌み嫌われている。
裏を返せば、それだけ金髪の儒子が、手のつけられない脅威になっているということだ。
この弟をも含めた皇帝の偏愛ぶりが、アンネローゼの立場をより難しいものにしている。


さて、普段は人前に出るのを極力避けているグリューネワルト伯爵夫人が顔を見せるという珍しい事が起きてしばらくすると、この日のもう一人の主役とも言うべき女性が入場してきた。
ベーネミュンデ侯爵夫人シュザンナである。

黒い瞳に黒い髪、凝った黒のレースを幾重にも折り重ね紫のシルクをあしらったドレスで登場した彼女は、美しくはあったが、それ以上にあたかも宮殿の中に突如出現した暗雲のような禍々しさを発散していた。
開け放たれた扉の前に立った彼女は、ぐるりとあたりを睥睨し、すぐに人垣の中心にいる顔を見分けた。
その途端、念入りに化粧を施した顔を歪め、不機嫌さを全身に露わにする。
招待客の差配をしていた者が慌てて制止するのも無視し、彼女はズカズカと人波の中へと割って入っていった。

とんだ見せ物である。
何を隠そう、ベーネミュンデ侯爵夫人はグリューネワルト伯爵夫人にその座を取って代わられるまで、皇帝の寵愛を一身に受ける身であったのだ。
老境に入ってから若い少女のような女性を好むようになった皇帝が、年齢を重ねてトウのたってしまったシュザンナを捨て、まだ16歳の美少女であったアンネローゼに乗り換えたのはそう遠い昔のことではない。
かつて皇帝に見初められた頃のシュザンナは、やはり今のグリューネワルト伯爵夫人のように初々しい少女だったのだ。
しかし時の流れは残酷なもので、当時皇帝を引きつけた美貌はまだまだ健在とはいえ、険のある目元や口元は、念入りな化粧では隠せなくなっている。
今ではベーネミュンデ侯爵夫人は、後宮の彼女に与えられた一角で、すっかり足の遠のいた皇帝を待ちながら、少数の権力の残滓にしがみつこうとする取り巻きを相手に、過去の栄華に浸った日々を過ごしている。
当然、彼女のアンネローゼへの憎悪は、並大抵のものではない。


もっとも、こうした詳細な情報は、後にロイエンタールが部下を使って集めたものである。
この時の彼は、後宮のこうした権力闘争について、せいぜい前寵姫が現在の寵姫への嫉妬を抱いている、という、誰もが知る、あるいは考えつく噂の範疇で知っていたのみである。


捨てられた女と、その地位にとってかわった女、予想外のバッティングに気づいた人々の間に、さざ波のように静かな興奮が走る。
ある者はあからさまな好奇の目でベーネミュンデ公爵夫人の姿を追い、また、わざとらしくも顔を背け何事もない振りをする者もいた。

黒衣のベーネミュンデ公爵夫人は、まるで舞台にあがった主演女優のような居丈高な顔つきで、気まずい注目を浴びせる周囲の人々をライトの外にいる観客であるかのように無視し、つかつかとグリューネワルト伯爵夫人に近づいていく。
そして、通りかかった給仕の盆から白ワインのグラスを取ると、勢いよくグリューネワルト伯爵夫人の金の髪と純白のドレスに浴びせかけた。

びしょ濡れになったグリューネワルト伯爵夫人も、周囲の人間もしばらく呆然としてしまい、その場を動けなかった。
夏の雷鳴のように、あっという間の出来事である。
大勢の面前でこれほどの屈辱を皇帝の寵姫に与えておきながら、ベーネミュンデ公爵夫人の方は、道に転がる小石をどかしてやっただけとでも言いたげに、尊大なままで眉ひとつ動かさない。
やがて我に返ったグリューネワルト伯爵夫人は、金髪からワインを滴らせ、射抜くようなベーネミュンデ侯爵夫人の視線から隠れるようにうなだれたまま、軽く会釈をした。
そのまま早々に立ち去ろうというのである。
だが、その対応はベーネミュンデ公爵夫人の暗い情熱に火を点けたようである。
自分が無視されたように感じたのか、目をつり上げ、彼女は辞去しようとするグリューネワルト伯爵夫人を後ろから追いかけた。
そして手にしていた扇を、今度ははっきりと害意を持って振りかざした。
固唾を飲んで様子を見守っていた広間の誰もが、グリューネワルト伯爵夫人がさらなる屈辱を受ける場面を予感し、恐怖と好奇心が紙一重となった緊張で凍りついたようになっていた。


ロイエンタールは少し離れた場所にいて、一連の騒ぎを醒めた目で見ていた。
本音では、このような女同士の醜悪な争いなど、無視したい所だ。
女絡みの修羅場というものを、彼は何度か経験している。
彼は女性に対し一定の敬意を払って接してはいたが、信用は全然していなかったし、むしろ内心では侮蔑していたので、どれだけ高貴さを装っている女でもこうした馬鹿をしでかし得るということを熟知していた。

だが、乗り気ではないとはいえ、彼はパーティーの安全を預かる身であり、目の前で問題を起こされては、彼自身の責任能力にかかわるというものだ。
仕方なしに止めに入ろうとした、その時である。


「お待ちください」
空気をふるわせるような凛とした声が響き、小柄な軍人がベーネミュンデ侯爵夫人の肩を取り押さえていた。
ベーネミュンデ侯爵夫人が驚いて振り向いた先にいたのは、ミッターマイヤーであった。
彼女の顔がみるみる怒りで真っ赤に染まる。
だが、ミッターマイヤーは臆することなく、ベーネミュンデ侯爵夫人の肩を取り押さえたまま、自分の軍での階級と名を大声で名乗る。
そして、侯爵夫人にこの世の秩序をとき始めた。
「おまえ……妾を誰だと…!」
グリューネワルト伯爵夫人を打擲するために振り上げられた扇が、今度はミッターマイヤーの目の前につきつけられた。

ロイエンタールは唖然として、次の瞬間大声で笑い出したくなった。
皇宮のパーティーでの皇帝の寵姫同士の争いを、ミッターマイヤーはまるで酒場で酔った兵士同士の喧嘩の仲裁に入るのと変わらぬ調子で止めに入っているのである。
しかも、見るからにプライドの固まりで蛇のように周囲を圧している女に向かって、ご丁寧にも大声で誰何している。
あまりにも無垢で正々堂々としているこの僚友に、ロイエンタールは感嘆させられ、ある意味魅了もされたが、それ以上に困惑し、呆れ、笑い出したくなり、とにかく一生分の感情を瞬時に味わされたような気分になった。
 

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