暗殺の天使-1



小さな突風のようなものが、ロイエンタールに向かって突進してきたのは、屋敷の門の所であった。

「一族の、かたき!」
その小さい何かは、ご丁寧にも大げさな名乗りをあげたが、その割にあっさりロイエンタールに取り押さえられた。

なかなかすばしっこい動きではあった。
しかし、そう簡単に討たれるようでは、帝国軍人の名折れである。
だいたい地面に落ちている武器は装飾のついた小剣で、こんな古典的なもので向かってこられたのがお笑い草である。

「何だ、子供か……」
取り押さえた獲物は、あまりに小さくて軽かった。
「しっ、失礼な、子供ではない!俺は16だっ」
少年は蜂蜜色の髪を振って叫んだ。
確かに声変わりはしていたが、まだ不安定な声で、威勢の良い小動物が吠えているようにしか見えない。

「わかった、わかったから、おとなしくしろ。門前で騒いでいたら憲兵がくる。つまらん事で無用な借りをつくりたくはない」

ロイエンタールが合図をすると、屋敷から数人の使用人が出てきて少年を四方から押さえた。

思いがけず飛び込んで来た小鳥は、駕籠の中へと閉じこめられた。


仇討ちに来た者を客間でもてなしてやるほどお人好しではなかったので、少年はロイエンタールの私室で尋問された。

「なに?リヒテンラーデ候の一族だと……?」
窓際に立ったロイエンタールは、腕を組んだまま不審そうにい眉根を寄せた。
「ああ、そうだとも」
少年は、胸を張って誇らしげに答えた。
「あの一族に、お前のような者はいなかったはずだが………」
ロイエンタールは、まじまじと少年を見た。

乱れた蜂蜜色の髪、大きなグレーの瞳、ばら色の頬。
眉のあたりに毅然とした意志を感じさせるが、まだ子供にしか見えない幼い顔つきである。
古着なのだろうか、着ているシャツはすり切れていて、まるで流行遅れの型だ。
しかも明らかに少年の体には大きく、袖口がだぶっと余っている。
要するに、顔だちはなかなか可愛らしいが、風情は路上で生活している少年のようであって、とても門閥貴族の一員とは思えない。

リヒテンラーデ一族の処刑を指揮したのは、他ならぬロイエンタールであった。
あの時、内務省のリストに従って、10歳以上の男子は、漏らさず処刑されたはずである。
こんな男子がいたら、真っ先に銃口の前にたたされたはずだ。

「世間には知られていないが、俺は間違いなくリヒテンラーデ一族だっ。証拠もある」
少年が差し出したのは、間違いなくあの家の紋章が入った指輪であった。
「俺の家は平民だが、親父はリヒテンラーデの血を引いているんだ」

聞けば、少年の祖母が少女だった頃、メイドとしてリヒテンラーデの屋敷にあがっていて、先々代の当主に手をつけられたのだという。
ところが身ごもったのが夫人にばれ、先々代と夫人との間の夫婦喧嘩の原因になった後に、暇を出された。
祖母はその後の一生を実家で静かに暮らしたが、子供が成人するまでの養育費は、細々とリヒテンラーデ家から援助されていた。
その子供というのが、少年の父である。

「だから俺の家は、代々リヒテンラーデ家への恩義を忘れず、忠誠を誓っている」

「手をつけられただけで、恩義もなかろうに…」
ロイエンタールは、日頃の自分の行状を棚にあげてつぶやいた。
「しかし、これでようやく得心がいった。そんな風にまき散らされた種まで調べあげるのは無理というものだからな」
貴族社会の退廃ぶりからすれば、こうした落とし種など、他にどれほどいるか知れたものではない。
ともあれ、自分のミスで取り逃がした訳でないことがわかったのは幸いであった。

「まあ、……お前のような子供が仇討ちなど馬鹿げているな。この事は不問にしておいてやる。何か食わせてやるから、そしたらおとなしく帰れ」
「敵のほどこしは受けないぞ…!」
「強がるな、空腹なのだろう?」
「うっ…それは、まあ……」
少年の丸い頬にわずかに赤みがさし、こくりとうなずいた。
よほど素直にできているようだ。
「だいたい、あんな飾り剣で、本気で人を殺せると思ったのか。おもちゃみたいなシロモノじゃないか」
「そ、それは、銃を買えなかったから……」
少年はますます赤くなった。
ロイエンタールは、思わずくくっと声を出して笑ってしまった。

「これでわかったろう、お前のような子供が出る幕じゃない。親の所へ戻るんだ」
ロイエンタールは珍しく、諭すように柔らかい口調で言った。

これは、何も少年を心配してやっているわけではなかった。
新たにリヒテンラーデ一族の血を引く男子が判明し、それが市井で暮らしていたとあっては、処分を巡って紛糾するに違いない。
以前の話を蒸し返してくる者が現れたりして、つまらない責任問題にまで発展しかねない。
ロイエンタールとしては、こんな所で余計なやっかいごとを背負いたくはないのだ。

すると、少年の灰色の瞳が揺れ、顔色が曇った。
「親父はとっくに死んだ。俺が子供のころ徴兵されてどこかの前線基地で……おふくろも去年の流行り病で死んだ……。俺ひとりが生き残った…」

天涯孤独となった少年は、こうして両親と一族の復讐にやってきたというわけか。

「親父が死んだことはしょうがないよ。戦災孤児なんてたくさんいるし、俺は誰も恨んじゃいない。でも……」
少年の大きな瞳に、急に強い光が宿った。
「子供の頃からずっと親父に言われて来たんだ、何があろうと、うちだけは最後までリヒテンラーデ家を守ると。俺は……親父の教えだけは絶対に守ると決めているっ」

言い終わるなり、少年はまたロイエンタールに飛びかかってきた。
「こら、無駄な事をするな」
「うるさいっ、お前は俺の仇だと言ったろっ」
しかし、顔にパンチが入る手前で、今度もまたあっけなく取り押さえられてしまった。
自称している年齢よりもだいぶ小さい体つきの少年と、ロイエンタールでは、体格が違いすぎるのだ。
「ったく、とんだじゃじゃ馬だ……」
床にうつ伏せに押さえつけても、なお、ばたばたと暴れる少年を持て余したロイエンタールは、ひょいっとかつぎあげた。
「何をするっ、降ろせ!降ろせよっ!!」
少年はますます手足をバタつかせたが、かまわずロイエンタールは小さな体を両手で抱えて、運び去った。