Vampire, Sweetheart

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8

「じゃあ、行ってくるよ」
翌朝、ロイエンタール邸へ持って行くために用意してあった写真や記録ディスクなどを整えたミッターマイヤーは、母親に出かける前のキスをした。
「あ、ちょっと待ってウォルフ、出かける前に食器棚の奥に入っている大皿を出してから行ってちょうだい」

キスを返しながらも上の空の母は、朝からずっと忙しそうに立ち働いている。
今日の午後やってくるというエヴァンゼリンのために、料理を仕込み、ケーキを焼いているのだ。
ミッターマイヤーは言われた通り食器棚の前にしゃがみこんで、奥から閉まってあった大皿の箱を取り出した。
「こんな綺麗な皿、初めて見たよ」
繊細なピンク色の花柄が絵付けされている金縁の皿を、ミッターマイヤーはおっかなびっくり箱から出した。
「父さんと母さんの結婚祝いにもらったものなのよ。でもあなたもお父さんも、お皿の柄なんか無関心でしょう?もったいないからずっと仕舞っておいたの。その点女の子は良く気がつきますからね。特にエヴァはとても裕福なおうちで暮らしてるんですもの。このお皿の良さも解ってくれるはずだわ」
思い出の花模様の皿を手に取り、母はうっとりと眺めている。

昨日から念入りに準備して、エヴァンゼリンのために得意のフリカッセや野菜入りパイ、色とりどりのケーキやクッキーを焼いている母は、普段は男ばかりで飾り気のない家に女の子が来るのが嬉しくてたまらないらしい。
「はいはい、どうせ俺みたいな軍人には、そんな可愛い柄は似合いませんよ」
ミッターマイヤーは肩をすくめた。
「何言ってるのウォルフ、あなたが早く結婚して可愛いお嫁さんをつれてくればいいのよ」
冗談混じりに言う母は、独立して手のかからなくなった息子には興味がないらしい。
「相手なんかいないことわかってるだろう」
「だったら軍なんて女っけのない所はとっとと退役して父さんの仕事を手伝えばいいじゃない。うちは代々職人の家系なんだし…」
「はいはい、時間がないからもう行くよ」
軍嫌いの母から耳に痛い小言を聞かされる前に、ミッターマイヤーは家から飛び出した。


指定されたオーディンの宇宙港の近くの公園の入り口で待っていると、黒くて美しいフォルムのスポーツカーが到着し、自動運転でミッターマイヤーをロイエンタール邸まで誘った。
前に来た時も驚いたのだが、門をくぐってもまだ広大な森が続いており、母屋は遙か遠くに木々の間に見えるばかりだ。
どれだけ広大な敷地に屋敷があるのかと感心するうちに森を抜けると、本体の豪奢な屋敷が目の前いっぱいに広がっていた。
これだけ広い森や屋敷にも関わらず、ここに来るまで人影は全くなくシンとしていて、車のエンジン音だけが静寂を破るように響いている。
おや、と思ううちに屋敷の車寄せの前を通り過ぎた車は、そのまま砂利道の上を進んで行った。

屋敷の前に広がる芝生に敷かれた小道の前で、車は静かに停止した。
降りてみると、クリケットの試合が出来そうなほど広々とした緑の芝生の中央に、白いテーブルセットと日除けのパラソルが光に照り映えている。
サングラスをかけデッキチェアに寝そべっていたロイエンタールが、体を起こした。
これまで軍服のロイエンタールばかり見慣れていたが、この日は白いシャツに黒いベストとスラックス姿で、真っ白いデッキチェアでくつろぐ姿は軍人とは思えぬ優雅さで、完全に貴族のガーデンパーティーと言ったおもむきであった。
カジュアルなチェックのシャツとカーゴパンツ姿の自分が、急に場違いに思えて、ミッターマイヤーはどぎまぎしてしまった。
「良く来たな」
ロイエンタールが悠揚な仕草で向かいのベンチを指し、ミッターマイヤーはそこに腰を降ろす。
正直、昨日の夜見た安っぽいヴァンパイア映画のような夢の感覚がまだ少し残っていて、ロイエンタールに会うのが少し気恥ずかしかったのだが、思いがけず爽やかで開放的な庭での邂逅となり、そんな夜の夢はどこかに吹っ飛んでしまった。

ミッターマイヤーの到着を計ったように、屋敷の方から執事を先頭に数人の使用人たちが恭しくトレイを運んできた。
豪華な料理が次々と運ばれてきて、ミッターマイヤーは目を丸くした。
母がエヴァのために作っている家庭料理とは大違いの美しく凝ったものばかりで、冷えたシャンパンやワインなどのアルコールもふんだんに用意されている。
「さあ、乾杯しよう」
青空の下、ミッターマイヤーにシャンパンのグラスを渡しながら、ロイエンタールはサファイアのような怜悧な瞳をじっと向ける。
「乾杯…?」
ミッターマイヤーが圧倒されながらグラスを受け取ると、ロイエンタールは薄く微笑み、グラスを持ち上げた。
「卿との再会を祝して乾杯」


その日はミッターマイヤーの想像していたものとは、まるで違う一日になった。
部屋の中でミッターマイヤー元帥の残した写真などをロイエンタールに見てもらい、城の来歴や資料を調べながら、先祖とこの城の関係について探るために来たはずであったのに、抜けるように晴れて気持ちの良い青空の下、芝生でピクニックをする羽目になったのだ。
用意された料理はいずれも食べたことがないほど美味しく、しかもミッターマイヤーの好きなものばかりだった。
ミッターマイヤーが夢中で料理を平らげるのを、ロイエンタールはどこか楽しげに見ている。
相変わらず、ロイエンタール自身は料理にほとんど手をつけず、ちびちびと赤ワインを口に運んでいるだけだったので、さすがに一人でがっついているのは失礼かとミッターマイヤーは手を止めた。
「遠慮するな。残すとうちの料理長ががっかりするぞ」
「そ、そうか?」
「オーディン中を探して腕の良いのを雇ったのだが、普段俺はほとんど家で食事をしないので奴も自信を喪失していた所だ。卿が来ると知って張り切って用意をしていたぞ」
ロイエンタールからお許しを得た所で、ミッターマイヤーはたらふく料理を平らげた。
食事の後はボールを追いかけて遊び、それに飽きると芝生の向こうに広がる植物園や噴水を案内してもらい、疲れてくると2人で芝生にのんびり寝そべって軍やローエングラム侯の元での将来について語り合った。
これまでの超然とした態度が嘘のように、ロイエンタールは良く喋り、ミッターマイヤーの言葉に真剣に耳を傾け、少し皮肉混じりながらも真摯に返事を返した。
ミッターマイヤーは思いがけず、自分がこの良く知らない男と一緒に居るのを楽しんでいるのを発見した。
まるで昔からの親友同士のような午後を、2人は過ごした。
時間は瞬く間に過ぎていった。


夜になり、軽い夕食をいただいた後は、2人でカード遊びに興じた。
ロイエンタールは優れたカードの腕前を発揮し、ミッターマイヤーはつい熱くなって勝負を挑んだ。
こうして、夜は更けて行き、気がつけば深夜になっていた。
さすがにこの時間から先祖の資料を出すわけにも行かず、ミッターマイヤーはこの屋敷に来た本来の目的は明日にする事にした。

豪華な浴室で風呂に入り、執事に寝室に案内される。
先日借りたのと同じ、空の青と白い天使のモチーフの部屋だ。
酔っぱらって訳のわからないうちに通された前回と違い、今度は偉大な先祖と同じ部屋にいるという興奮がミッターマイヤーを満たしていた。
彼は室内を歩き回り、壁の風景画の前で立ち止まり、テーブルの花瓶に活けられた一輪の可憐な花に触れた。
朝の光の中で見ると、この部屋はさぞかし美しく輝くだろう。
思わず彼は、ベッドサイドのヴィジホンでロイエンタールの寝室の内線番号を押した。

モニターに映ったロイエンタールの部屋は、灯りがついていないようで、青白い月明かりが彼の顔を浮かび上がらせた。
すでに用意された薄い水色のパジャマ姿のミッターマイヤーと違い、ロイエンタールは衣服を改めておらず、晩餐の時の礼服のままである。
「どうした」
頬を紅潮させているミッターマイヤーに、ロイエンタールは表情を動かさずに問いかけた。
「今回も、この部屋に通してくれてありがとう!」
「ん?」
「俺の先祖のミッターマイヤー元帥と同じ部屋に、さ」
「何だそんな事か」
ロイエンタールが薄く笑った。
「それは卿のための部屋だ。ウォルフガング・ミッターマイヤーのためのな」
ロイエンタールの声にはどこかからかうような皮肉な色が混じっていて、ミッターマイヤーは子供のように興奮していちいちヴィジホンをかけてしまったことを少し恥ずかしく思った。
「それではおやすみ、ロイエンタール」
「おやすみ、ウォルフ。良い夢を」
映像が途切れる直前、ロイエンタールの白皙の顔を月光が照らした。
ミッターマイヤーはあっと小さく声をあげた。
ロイエンタールの光の当たらない片方の瞳が黒曜石のように黒く見えたのだ。
そして、碧と黒の色の異なる瞳は、まるで天頂でまたたく星のように、この世のものではないような神秘的な美しさを放っていた。
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