愛する友の瞳は、大きく見開かれていた。
こんな時でさえ、その瞳を美しいと、ロイエンタールは思った。
持ち主の心のように、清らかで透き通った薄いグレイ。
きっと真実しか映さない。
俺はこんな瞳に生まれたかったのか?
わからない。
だが、友が彼に向ける目には、今まで見たこともない感情が宿っている。
恐怖と敵意。
異形の者を見る目つき。
遠い昔、記憶の中で母親が向けた目と同じ。
「ロイエンタール、頼む……」
ウォルフガング・ミッターマイヤーの声は震えていたが、なおも毅然とした響きを失わなかった。
「頼むからエヴァは、エヴァだけは助けてくれ……」
彼は妻であるエヴァンゼリンをかばうようにして立っている。
その後ろでエヴァンゼリンは、すがりつくように夫の腕に手をまわしている。
絡ませた腕は信頼の証というわけか。
ロイエンタールは侮蔑に口を歪める。
金髪で小柄な二人は、誰もが羨む似合いの夫婦だった。
オーディンの土産物屋に二束三文で並んでいるオルゴールの扉に彫られている恋人同士のように。
その事がロイエンタールをイラつかせる。
ミッターマイヤーは真剣だ。
本気で俺がこの女に危害を加えると思っている。
エヴァンゼリンだけは助けてくれだと?
急にロイエンタールは、何もかも馬鹿馬鹿しく、笑い出したくなった。
この女を、俺がどうしようというのだ。
こんな平凡でつまらない女を相手にすると思われるとは、見くびられたものだ。
野暮ったい、いつまでたってもミルクの匂いのする子供のような娘。
慎ましやかな色のドレスの上からかけているかぎ針編みのショールは、彼女の手編みだろう。
家でレース編みでもしながら夫を待つ事が、彼女の人生の大を占める。
だが、考えて見ればエヴァンゼリンは、ロイエンタールのこれまでの人生で、母親の次に彼の頭の中を占めてきた女かも知れない。
ロイエンタールにとって、女とは取るに足らない信用のおけないものと同義語だ。
忌み嫌うか、どうでもいいか、のどちらかの感情しか持つことはできない。
ほとんどの女はどうでも良い、目にも入らない存在だった。
何度も寝た女であってもだ。
そして、エヴァンゼリンは、もう少しだけ強い感情を呼び起こす。
ロイエンタールは、どうしてもこの女が好きになれなかった。
そう、彼は今初めて認めた。
この女が嫌いだと。
友の手前、口には出した事はない。
しかし、敏感にミッターマイヤーには伝わっていたのだろう。
女の事になると、二人は珍しく意見を異にし、終いにはこの話題を避けるようになった。
エヴァンゼリンを嫌う者は、滅多におるまい。
小さくて控えめで、人を威圧する事がない、誰の邪魔にもならない女だ。
疾風ウォルフの妻でなければ、とても人の目に留まるような女ではない。
ロイエンタールがこの女を嫌う理由はただ一点、ウォルフガング・ミッターマイヤーの心を奪っている、というただそれだけだった。
だが、こんな取るに足らない女はどうでもいい。
問題はミッターマイヤー、おまえだ。
ロイエンタールがこの世でただ一人、認めた相手。
他の誰とも違う、唯一、共にありたいと願う相手。
蜂蜜のように甘い色の髪、青春のただ中にいるようなみずみずしい笑顔。
そしてどんな宝石や黄金よりも、純粋な心と勇気を持った、ロイエンタールの最愛の友。
しかし、今、その友は、ロイエンタールを拒もうとしている。
差しのべた手を振り払い、これまで見た事もない感情をロイエンタールに向けている。
ミッターマイヤー、マイン・フロイント。
お前は、俺にこんな目をよそよそしい目をする人間ではなかったはずだ。
お前だけは、違うと信じていた。
今のお前はそっくりだ。
俺の目を見て生まれてくるべきじゃなかったと、ありったけの憎悪をぶつけてきたあの女と。
「俺の命を奪いたければそうするがいい、だがエヴァンゼリンだけは無事で返してやってくれ」
ミッターマイヤーは頭を垂れ、精一杯、懇願する。
輝きに満ちた疾風ウォルフの姿はそこにはない。
「待ってください、ロイエンタール様」
エヴァンゼリンのか細い声が、夫の声にかぶる。
「どうしてもというなら私の命を……ウォルフは離してあげて……彼は帝国に大事な人だから……」
喉をひきつらせながら、スミレ色の瞳の娘は夫をかばうように前に出た。
ロイエンタールを突き動かしていた熱情は、急激に醒めていった。
……それがお前達の望みか。
互いのために死ぬ事が、お前らの望みなのか。
そこにロイエンタールの入る隙はどこにもない。
愛する者のために死ぬ事すら許されない。
この館は寒い。
白いシャツを羽織っただけのミッターマイヤーは、血の気を失ったような青白い頬をしている。
そしてエヴァンゼリンは、夫に自分の体温を移すようにか細い腕を夫の腕に絡ませている。
ちっぽけな小娘の命を奪うなど簡単だった。
望みなら、この場で言う通りにしてやろう。
この女を殺せば、ミッターマイヤーを永遠に手に入れる事ができる。
ロイエンタールの異形の瞳が、暗く歪められる。
だが、もしここでエヴァンゼリンが死ねば、ミッターマイヤーはその事に囚われ続けるだろう。
……永遠に。
そんな事、許してやろうはずがない。
ミッターマイヤーの心を持ち去って永遠の死を迎えるだと?
そんな願いなど、叶えてやるつもりはない。
「ミッターマイヤー……」
ロイエンタールは感情を失ったように口を開いた。
「それが、お前の望みなのか?」
「…そうだ」
ミッターマイヤーは迷わなかった。
胸を刺すような痛みと絶望が、ロイエンタールを支配した。
俺とともに永遠を手に入れるより、退屈な女とわずかな刻を生きる事を選んだのだ。
そんな女を愛するミッターマイヤーもまた、平凡でつまらないちっぽけな存在なのだ。
大きな望みなど持とうとしない。
世界に目を向けようともせず、平凡で穏やかなだけの人生を望む、つまらない人間。
だが、そんな彼を愛してしまったロイエンタールこそが、一番の敗者だった。
「わかった、我が友よ」
ロイエンタールは瞬きもせず、友の顔をじっと見つめた。
「ならば俺はお前の望み通り、お前の前から消えてやろう」
もう逢えないのだから、全てを網膜に焼き付けておこう。
ウォルフガング・ミッターマイヤー、永遠のマイン・フロイント。
出会った時から、ただ一人の相手だと信じていた。
……いつか、この蜂蜜色の髪の友以上に愛する事が出来る相手が、できるのだろうか。
きっと、永い時を刻めば、胸の痛みは薄らいでいくだろう。
だが、この先ロイエンタールを待ち受けているのは、完全なる孤独だ。
一人で生きるというのは、どんな事なのだろう。
「ロイエンタール…?」
ミッターマイヤーの瞳が、やがて悲しげな翳りを帯びる。
俺のためにその瞳が、万華鏡のように怒り、笑い、哀しむのが好きだった。
「さらばだ、ミッターマイヤー」
「待ってくれ、ロイエンタール……」
最後に耳に残ったのが、ロイエンタールと呼ぶ声だった。
その唇が自分の名を呼ぶたびに、甘い幸福を味わった。
二度と逢えない、永遠の恋人。