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ガラガラと引き戸が開いて、その男が店に入って来た時、ミッターマイヤーの目はテレビのナイター中継に釘付けであった。

夜も9時半をまわっていた。
1点ビハインドのゲーム、9回裏ツーアウト、ランナーが塁を埋めていて、打席に入っているのは4番打者だった。
ガランとした店内で喋っている者はおらず、数少ない客の目は、カウンターの上に据えてあるテレビに何とはなしに向けられていた。


上から薄暗い蛍光灯を遮るような陰が出来、ミッターマイヤーはテレビから視線を剥がした。
唐突に男に横に立たれたバイエルラインがわざとらしく咳をして立ち上がり、「あ、僕はそろそろ……」と食べ終わった定食の丼や割り箸を盆に集め出した。。
可哀想にバイエルラインがそそくさと席を譲るのが当然とばかりの威圧感を、男は当然のように放っていた。

「伝票、置いてけよ、俺が払っておくから」
ナイター中継と男を交互に視界に納めながらミッターマイヤーが声をかけると、「でも…」とバイエルラインは形ばかりの遠慮をしてみせる。
男がさっと一睨みをくわえると、それじゃお願いしますなどともごもご口の中でつぶやき、盆をカウンターの横に戻して退散していった。

「あんまり、あいつをいじめてやるなよ」
「向こうが勝手に俺を避けてるだけだ」
ミッターマイヤーがたしなめると、男は無表情のまま、空いた安っぽい緑のビニール張りの椅子に腰を降ろした。


こんな場末の小さな食堂には、何とも不釣り合いな男である。
堂々とした体躯。
黒いトレンチコートの下からのぞくダークグレーのスーツ、黒い光沢のあるシャツは、どうせ海外のハイブランドもので、ミッターマイヤーなどには予想もつかない値段がするに決まっている。
脂じみたテーブルに袖口が触れると汚れにならないかと、余計な心配をしたくなるほど、男はうまく着こなしていた。
丁寧に撫でつけられたダークブラウンの髪、サングラス越しにも端正だとわかる顔つき。
夕食時なら、労働者でいっぱいになる店内では、さぞかし浮いてしまったことだろう。


音量を落としたテレビから、悲鳴のような歓声と、それに続く失望のため息が漏れてきた。
無口な店主がちっとひとつ舌打ちすると、チャンネルをニュースに替えてしまった。
目を離している間に、4番が凡退して試合は終了したのだろう。


なぜ俺がここにいる事がわかった、と、ミッターマイヤーは聞かなかった。
繁華街のはずれにあるこの食堂は、署からも離れており、同僚にもまだあまり知られていない場所だ。
安くて味が気に入ったのと、無口な店主の趣味で毎晩ナイター中継を流している事もあり、最近のミッターマイヤーのお気に入りの店なのだ。

もっとも、この男には刑事たちにはとうてい知り得ないネットワークがある。
彼は、好きな時にこの街のどこにでも出没する。
この雑多で陰影の強い巨大な街を、まるで自分の庭のように泳ぐ。

それでも、ミッターマイヤーが今日は珍しくデスクワークに追われていたことや、風邪を引いた実家の母の看病で妻が家におらず、部下のバイエルラインとこの店で夕食をすます羽目になったことまで、こちらの事情まで把握しているかのようにタイミングよく現れるのが、不思議ではあった。

食堂は10時で終業する。
腹ごしらえをすませた客たちは、深夜営業の飲み屋に繰り出してしまうため、店内は寒々としていた。

男は人差し指でバイトの学生を呼ぶと、ウーロン茶を注文した。
ミッターマイヤーがまだ仕事中で、酒は御法度であると男は知っているし、かといってこんな安食堂のものなど口にあうようにはとうてい思えない。

小瓶に入ったウーロン茶とコップがくると、男はおもむろにサングラスをはずした。
左右の色の違う瞳が、ほの暗い蛍光灯の光の下にさらされる。


「久しぶりだな」
ミッターマイヤーは向かいにいる男に改めて向き直った。
「傷の具合はどうだ」
男の問いかけに、ミッターマイヤーは、シャツの上から横腹を押さえた。
「ああ、元からたいした傷じゃなかったからな、もう忘れてたくらいだ」
2ヶ月ぐらい前になるか、この近くの救急病院で縫い合わせた傷跡がそこにはある。
安心させるようににこりと笑うと、男も口元だけでかすかに笑った。
この街の女たちがこぞって夢中になる冷然とした顔が、どこか優しくなる。
やはりこの男に、この店は場違いだとミッターマイヤーは思った。


そう、あの時以来だ、この男の顔を見るのは。
ミッターマイヤーは思い出した。

あの日、朦朧とした意識の中で、この男の車に乗せられた事だけは覚えている。
ミッターマイヤーは、この男に命を助けられた。
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