27℃の睡眠

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朝っぱらから、ロイエンタールは気怠げに簡易ベッドに横たわっていて、彼の部屋を訪れたミッターマイヤーは、失敗した、と感じたが、後悔先に立たずである。

部屋は持ち主に似て、殺風景なほど抑制された空気に支配されていたが、椅子に無造作にかけられた黒いコートに朝帰りの痕跡を見つけ、ミッターマイヤーは少し赤くなった。
こうした下世話な匂いにはとんと疎い彼は、いつもならカシミヤのコート(目の玉が飛び出るほど高価)がどこに掛かっていようと全く頓着しないのであるが、ロイエンタールが昨夜とある令嬢と一夜を過ごした事は、基地内の噂雀たちからの情報でインプット済みなので、普段ならまず気にもかけないような箇所に、余計な詮索が行ってしまうのだ。

「どうした、朝から」
当のロイエンタールは、気のなさそうに伸びを一つした。
軍服に着替えもせずに、シンプルなシャツとスラックスの部屋着のままベッドにいる。
「どうしたって、辞令だよ、辞令」
椅子がふさがっているので、しかたなしにミッターマイヤーは、ベッド脇にあるサイドテーブルに(ちょっとお行儀悪く)ひょいと座った。
「もう出たのか?」
「これから、聞きに行くのだが……」
部屋の主の無関心な態度に、一緒に行こう、と学生みたいに誘いに来た事を、ミッターマイヤーはますます後悔し、やや恥じた。


辞令の季節であった。
軍では春と秋の年に二度、大がかりな配置転換が行われる。
昇進、降格、移動が一斉に発表され、オーディンに戻る者、更なる厳しい前線へ送られる者、明暗が別れ、兵士たちが一喜一憂する日である。
その発表が、今日の午前中に行われる。

ロイエンタールとミッターマイヤーは、イゼルローンから共に今の基地へと移動してきた。
どちらも上層部からは扱いにくいと思われているようで、問題児同士を一緒にしておこうという短絡的な魂胆が見え隠れしている人事である。
それでも、ミッターマイヤーはロイエンタールと一緒にいられる事が嬉しかった。
だが、彼は同時に、ロイエンタールが、いつまでも自分のような者と待遇の良くない前線を転々としているような男ではない事も、理解している。
ロイエンタールが、こんにち、彼の身分能力からするとだいぶ恵まれない所にいるのは、あくまで一時的な懲罰措置である事は誰でも知っている(決闘騒ぎで軍内部を騒がせた事への…)。
そろそろほとぼりも冷めて来た事だし、おそらく次の辞令で元のそれなりに待遇の良い勤務地に戻るだろう、というのが、基地内での情報通の見方であった。

そんなわけで、昨夜、ミッターマイヤーは少々センチメンタルな気分になり、友と別れの杯でも酌み交わしたいと思ったのだが、生憎と彼の姿は見あたらず、他の士官達と出かけたバーで、例の色男なら基地内で店を出している富裕な商人のお嬢さんの所にしけこんでいる、という情報をキャッチしたのである。
こんな夜でも抜け抜けと平常運転なのもさる事ながら、女性の絶対人数の少ない前線基地で数少ない資源を独占している金銀妖瞳に、その場にいた兵士たちが悲憤慷慨した事は言うまでもない。


せっかく知り得た友と別れ難いと感じているのは、自分だけのようである。
しかし、ミッターマイヤーは、自分が、この美男子の貴族とは不釣り合いであると自覚していたので、それも致し方ない、と割り切っていた。
有無を言えぬ知り合い方をしたためあまり気にとめていなかったのだが、本来なら、自分はロイエンタールとは口も聞けぬような立場なのだ。
昨夜のように、一歩離れて見るとよく分かる。
良くも悪くも、ロイエンタールは他人が無視出来ぬ存在なのだ。
深い闇のような端正な容貌と、独特の優雅で冷ややかな態度、時に平気で他人を嘲笑するような顔をする癖は、近寄る者を気後れさせたが、その態度がかえって周囲からの奇妙なほどの尊敬や評価に繋がっている。
明らかにこんな前線基地の下士官達の中では浮いた、より孤高な存在であると誰からも思われていた。

まだ短期間のつきあいなのに、一緒にいても、ミッターマイヤーは、ロイエンタールの貴公子然とした態度に舌を巻くことばかりだ。
並んで歩いているとごく自然にかばうように車道側を歩いたり、高い所にある物を取ろうと手を伸ばすと何も言わずにさっと取ってくれたりと、紳士的な振る舞いが身についているのだ。
すべてに置いて、自分より高い所にいる人間、という感じがする。
友人づきあいをしているのが、不思議なぐらいだったのだ。


ともかく、こうしていても、時だけは確実に過ぎて行くので、ミッターマイヤーは朝になると自分からロイエンタールの部屋を訪れたのであるが。

「どうかしたか?」
珍しく黙ったままのミッターマイヤーに、ロイエンタールはベッドで上半身を起こした。
「いや、卿はドライなものだな、と思って」
「何が?」
「この基地から移動になるかもしれないのに」
……俺と離れるかもしれないのに、とは言えなかった。
「ああ、早くもう少し上に行ける場所へと移動したいものだ。こんな小さい基地でくすぶっているのは時間の無駄だからな」
ロイエンタールは淡々としたものである。
目的まで最短で行こうとするロイエンタールを尊敬はするが、一緒に過ごした時間を無駄と言われると、ミッターマイヤーはあまり面白くはなかった。
ロイエンタールがくすりと口元をほころばせた。
「何を拗ねているのだ?」
「べっつに……」
どうもロイエンタールの方が、うわ手である。
内心を見透かされて、ミッターマイヤーは自分でも頬がむくれたような顔をしているのが分かる。
「別に、と言う顔ではないな」
ロイエンタールはからかうように短く笑うと、長い腕を伸ばして来た。
右の手首を掴まれる。
「…どこに移動になるかなんて、俺達にはどうにもならん。考えるだけ無駄だろう」
ロイエンタールは、どこか投げやりに言う。
あ、同じ事考えてたかも、とミッターマイヤーは腕の力を抜いた。
だが次に、ロイエンタールはいつもの自嘲するような顔になり、髪をかきあげた。
「何も考えたくない夜は、女の所で過ごすのがいちばんだ」
「…その考えには、賛同しかねるっ」
そうした経験のないミッターマイヤーは顔を赤らめてきつく言うと、手を振りほどこうとしたが、ロイエンタールが思いのほか強い力で手首を掴んでいるので、諦めた。
残り少ない時間を、喧嘩で使ってもつまらない。
「……移動になっても連絡するよ。またどこかで呑む機会もあるだろう」
すると、ロイエンタールは、びっくりしたように眉をあげた。
青と黒の瞳で、絶句したようにこちらを見る。
「な、なんだよ、連絡したら迷惑か?」
妙な反応にミッターマイヤーは口ごもった。
「そうじゃない……」
不意に、ぐいっと腕を引かれて、ベッドに倒れこむと、ロイエンタールの広い胸に抱き留められる。
ふわりとコロンのような不思議な香りに包まれた。
耳元でロイエンタールが低く囁く。
「いっそ、駆け落ちでもするか」
「へ?誰が」
「俺と、おまえ」
ミッターマイヤーは慌てて体を起こした。
「冗談……っ」
ちょうどロイエンタールの膝の上に馬乗りになっている形で、頬を赤くしているミッターマイヤーを、人の悪い笑みを浮かべて眺めている顔が目に入り、ため息をつく。
「卿の言葉遊びにはつきあってられん」
いつも、このペースに乗せられてしまう。
「冗談なんかじゃない」
ロイエンタールは、両手でミッターマイヤーの手を包み込むようにした。
「……要は力があれば良い。力があれば行き先は俺たちが決められる」
淡々と、だが、紛れもない野心。
「ずいぶんと簡単に言うな……」
呟くと、ロイエンタールは満足げに口の両端をあげた。
「卿がいれば、こそだ」
そのままミッターマイヤーの髪を持て遊ぶように、撫で始めた。
最近気づいたが、ロイエンタールがべたべたと触ってくるのは、甘えたい時だ。
人で遊ぶなといちいち抗議するのも疲れるので、したいようにさせてやる。

彼は、生き急ぐように、最短距離を行く。
自分は?
自分はどうしたいのか、よく分からない。
ロイエンタールの容貌、力、厳しさに、ミッターマイヤーは確かに惹かれる。
だが、それ以上にロイエンタールが時おり見せる悲しみに、寄り添っていたいと思う。
写真の一枚もない殺風景な部屋にいてほしくないと思う。

「そろそろ、行かないと」
ひとしきりくつろいだ後、朝からベッドでごろごろしていたらまた問題児扱いだとミッターマイヤーが抗議すると、ロイエンタールはいっそ鮮やかに笑った。
「そうしたら二人でさらに最前線送りだな」

たとえ道が別々に分かれても、きっと彼の事を考える。
回遊魚のように大海を泳いでも、疲れたらいつでもお帰りと言えるようになりたい。




『卿らのような問題児は、まとめておかないといかん』
そう上官に言われて、同じ基地への辞令を二人で受け取ったのは、その数時間後だった。
 
 
 

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