The Only Way 1

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……とんだ、とばっちりだ。

窓から濃紫に暮れゆく夏の空を見上げ、バイエルラインは舌打ちをした。
副官数人で使用している部屋はシンとしている。
日が長いとはいえ、この時間になるとさすが黄昏の部屋は薄暗い影に覆われていた。

無機質な灯りを点しながら、濃紺に沈みゆく空をもう一度見上げた。
この気持ちのいい夏の宵、ほとんどの同僚が夜の街に繰り出している。
今頃は泡を溢れさせたビールジョッキが、テーブルの上を飛び交っているに違いない。

なのに、なぜ自分一人、軍の庁舎に居残って、残務をこなしているのだろう。

体を動かすのが資本の軍だが、上層に行くにつれて煩雑なデスクワークも増えてくる。
様々な計画書と報告書の作成、よその部や下から回ってきた文書のチェック、コンピュータの中には溜まっている書類がいくつもあった。
同僚たちの引けた部屋で、バイエルラインは肘をつき半ば上の空で、画面を眺める。
何ともわびしいこの状況のうち、半分は自分で引寄せたものだ。
しかし、別の人間が引き起こしたある事件がきっかけとも言える。
そう、あのせいだ。
自分がこんな理不尽な状況に置かれる事になったるは、あのせいだ。
他人のせいにすることをしないバイエルラインであるが、今回ばかりはある要素の介在を恨まないわけにはいかなかった。


事の起こりは数週間前だ。
 

オスカー・フォン・ロイエンタール元帥、内国安全保障局から起訴される。
そのようなニュースが突如として軍内部を駆け巡った。

罪状は反逆。
追放されたはずのリヒテンラーデ一族の娘を屋敷に置いていた。
その娘は身ごもっており、たいそう喜んだロイエンタール元帥は娘の前で生まれてくる子供を新皇帝にすると誓ったという。


当然、軍の人間は皆驚いたが、どこかでやはりという雰囲気が醸造されてもいた。
これまでもたびたび女性関係でスキャンダルを起こしているロイエンタール元帥の事、反逆者の娘に手を出したとしても不思議はない、いやその娘は元帥が夢中になるほど美しいそうだ、慎重な元帥らしくもない事を口走ったのはよほど子供ができたのが嬉しかったのだろう、いやいや、意外と真剣に皇位簒奪を狙っているのかもしれないぞ………。
噂雀たちの間では下世話な憶測がかまびすしい。


バイエルラインの周囲では、もう少し正確な状況が知らされていた。
ロイエンタール元帥は、女が身ごもっていた事を知らなかったと申し開きしていると聞いていたし、そもそもこの一件を告発したのは国家安全保障局という怪しげな機関である。
旧王朝の秘密警察を換骨奪胎したような組織で、他の省庁からは忌み嫌われていたから、軍上層部の多くは最初からこの話を眉に唾して聞いていた。



バイエルライン自身、下世話な噂は信じていなかったし、揺籃期の新王朝で下らぬ内輪揉めなど少しも望んでいなかったが、ロイエンタール提督のこうした失態が表沙汰になるのは、多少いい気味だと思わないでもなかった。
結局、判決は皇帝の裁量で無罪となり軍にも大して実害はなかったし、内心でいい気味だと思うぐらいは自由だろう。

………それも、自分に火の粉が降りかかってくるまでの事だったが。


この一件が持ち上がって後の、ある日の事である。
バイエルラインの上司、ウォルフガング・ミッターマイヤー元帥が、彼の顔をじっと注視して、おもむろに口を開いた。

「卿、恋人はいるのか」
「……は?」
「恋人はいるのかと聞いている」

ミッターマイヤー元帥は普段はおよそ、そうした話題とは無縁の存在である。
結婚はしていたが、幼なじみとままごとのような関係の末のゴールインなのは周知であり、女遊びをしたという噂も全く聞かない。
親友であるロイエンタール元帥の漁色家ぶりと比べると、色恋の道にとんと疎い、朴念仁なのだ。
これまで部下のプライベートな恋愛に興味を示して来たことも、一度もない。

それが突然、そうした質問をぶつけてきたのだから、バイエルラインが面食らうのも当然であった。

「いえ、自分はそうしたことには不案内で……軍が恋人のようなものです」
「なんだそれでは一人前とは言えぬだろう。好きな女の一人もいないのか」
「特には……」
「どんな女が好みなんだ」
「それは……ミッターマイヤー閣下…………の奥様のような方が、いえ、その………」
「お世辞を言ってる場合じゃないぞ、しっかりせんか」

自分より頭一つ背の低い上司に背中をどやされて、バイエルラインの背を冷や汗が流れる。

ふと周囲を見ると、同僚のドロイゼンやジンツァーが笑いをこらえていた。
そりゃそうだろう。
戦場で毅然と戦術を語るミッターマイヤー元帥は、部下の信頼と敬愛を一身に集めるに足る軍神のごときオーラに満ちあふれている。
ところが、色恋とはいかにも無縁のこの純情で童顔の上司が、一回りも長身の部下の前でいっぱしに恋愛論を語る様子は、まるで可愛らしい少年が無理をして背伸びしているようにしか見えないのだ。
早く決まった相手をつくれと、もっともらしくせっつかれ、バイエルラインは閉口した。



「閣下は、卿の事を人一倍心配しているのさ」
これは、酒の席での、年長のビューローの言である。

ビューローは落ち着いたあまり物に動じぬ男で、いつも一歩引いた冷静な言動をする。
若い同僚の中にあって、軍での経験も人生経験も摘んでおり、彼の言葉はどこか重みがあった。

「だからって……急に恋人の心配っすか?」
バイエルラインはうなずきながらも、釈然としなかった。
すると、同席していたドロイゼンがニヤニヤした顔をこちらに向けた。
「それは、放って置けば、卿がいかにも悪い女に引っかかって面倒な事になりそうだからさ」
「……失礼なっ。俺は女になんか引っかかりませんよっ」
大声を出して、グラスの酒をあおる。

……誰かさんじゃあるまいし。
小さく付け加えると、それだよ、とビューローに肩を叩かれた。

「ロイエンタール元帥の事件以来、閣下は過敏になっておられる。決まった相手がいればつまらぬ事でつけ込まれる確率も減るではないか。気休め程度ではあるが、私生活をきれいにしておくに越したことはないからな」

「それはわかりますけど、何で俺なんです!?」
決まった相手のいない者など、軍の中にごまんといるではないか。
「…そんなに俺、頼りないっすかね。だいいち俺、今の所仕事がいっぱいいっぱいで、女には興味ないすから」

不満がましく言うと、ビューローとドロイゼンは、顔を見合わせて吹き出した。
「卿はまだまだ青いなあ」
「そういう所を閣下は心配しておられるんだぞ」
口々に冷やかされ、空いたグラスに酒を注がれると、バイエルラインはあきらめ顔で先輩達の魚になった。

年少のせいか、性格なのか、この艦隊でバイエルラインはいじれ役である。

……叱られ役は慣れてますんで。
というと、ドロイゼンなどは呆れ顔をする。
……叱られ役なんてよく言えるな、閣下に平気であれだけの事を言って左遷されぬのだから、感謝するべきだぞ。
……おおらかなミッターマイヤー閣下だから許されてるけどな、他の提督の下にいたら下手したらどこかへとばされてるぞ。


そりゃまあ、ミッターマイヤー艦隊に配属されたばかりの頃は、嬉しさや怖いもの知らずもあって、結構失礼な事を平気で言ってきたという自覚はある。
短慮な事を漏らしてミッターマイヤーにたしなめられ、敵を前にして「こんなの楽勝っすね」と舐めてかかって油断するなと怒られ……。
確かに、怒られても仕方がない事をいろいろ言ってるな。


「まあ、あまり女に興味がないなどとおおっぴらに言わない事だ、誤解されるぞ」
「誤解ってなんすかっ」
酔いもあり真っ赤になって先輩達つっかかりながらも、自分のそうした振る舞いをおもしろおかしく吹聴している者がいるのは知っている。


……なあ、バイエルライン、ミッターマイヤー閣下は世界の全てじゃないぞ。
ビューローから忠告めいた事を言われた事がある。
わかってるさ、そんな事。
士官学校を卒業したての従卒じゃあるまいし。

けれど、かつて、バイエルラインにとって、ミッターマイヤーが世界のすべてだった時が、確かにあった。
憧れて、憧れて、あの人しか見えなくなっていた。

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