夏の庭-1



初めてミッターマイヤーの家に足を踏み入れた日。
オスカーの記憶の中にいちばん強烈に残ったのは、さんさんと陽光が降りそそぐ庭と、夏草の匂いだった。


庭師の家なのだから、庭が目に止まるのは当たり前かもしれない。
しかし、伸び放題に高く伸びたハーブの枝、パレット上で色を混ぜあわせたように咲き乱れる種々の花々、木陰をつくる木々の生い茂る葉が初夏ののどかな風に揺らめいている様は、オスカーを妙に落ち着かなくさせた。
この庭は、狭くて、雑多で、どの植物も互いに寄り添いあい、生命力に溢れていた。
こんな庭をオスカーは見た事がなかった。

彼が知っているのは、窓枠から眺めるだけの広大で、人工的に整えられた、貴族の庭園だった。
そこでは木々はどれも幾何学的に伐採され、茎の高さが均一で整然と生え揃った花たちは、全て造花のように見えたのだ。


ミッターマイヤー夫人は、明らかに困惑していた。
なぜ連れてきたのだ、と、無言で夫に問いかけるような眼差しを向け、実直そうな庭師は四苦八苦しながら言い訳を捻りだしていた。

「屋敷の用事が片づくまで、2〜3日の間だそうだ。
「まあ……でも本当に、うちなんかでよろしいの?」
「仕方ない、坊ちゃまが是非にとおっしゃるんだ。ウォルフの部屋の隣の客間が空いてたろう」
「ええ、でも……」

少ない荷物を持ったオスカーが玄関口に佇み庭を眺めている間、夫妻は小声で相談をしていた。

縁もゆかりもない子供を、急に家において世話をしなければならなくなったのだ。
おまけにその子は、左右の瞳の色が違う奇形ときている。
婦人にしてみれば、不意打ちで化け物でも連れてこられたようなもので、さぞかし気味が悪いことだろう。


だが、今のオスカーは、他人の事情なんかどうでも世かった。
この家を選んだのは、彼の意志だ。。
他よりもまし、というだけの理由だったが。

母親は彼が幼い頃に自殺し、今また父親も酒浸りになって数日前に死んだ。

残されたのは、一生かかっても使いきれないほどの莫大な遺産だった。
両親の生前はその行状を嫌がって近寄りもしなかった不愉快な親類たちが、ハイエナのようにロイエンタール家に集まってきた。
遺産目当てを隠そうともしない彼らは、母親譲りのきれいな顔をした、冷ややかな少年の機嫌を必死に取ろうと試みた。
オスカーにとっては、金も土地もどうでもよかったが、強欲な親戚たちに家を乗っ取られるのは、ごめんだった。

オスカーは自分が15才になるまでの財産の管理を、全て管財人に任せ、家に出入りしていた中でいちばん実直そうな庭師を後見人に指名した。
平民なぞを後見人にするなんて、と、親戚一同は仰天したが、彼の意志は変わらなかった。

そして、おこぼれを期待して集まった親戚たちが、全て諦めてロイエンタール家から出て行くまでは屋敷に戻らないと宣言して、この庭師の家にやってきたのだった。


「こんな狭い家、坊ちゃまには不自由でしょうけど、しばらく我慢してくださいね」

客間で待たされ、夫人が紅茶と手作りらしいケーキを出している間、庭師の方は二階の客間を片づけに昇って行った。

狭い、というのは謙遜でも何でもなく、家は本当に狭かった。
ロイエンタール家の、門番の番所ぐらいの大きさだった。
部屋は小さく、隣の部屋で少し大きな声で喋れば全部聞こえてしまうだろう。
そのかわり、家の中はよく手入れされていた。
木材のテーブルと椅子は、きちんと磨き上げられているし、風に揺れるカーテンは、貴族の邸宅のような高価なレースなどではないが、こざっぱりとしていた。

南側に大きく開いた窓から初夏の太陽が射し込み、家全体が明るかった。
窓からは、夏草が伸び放題の庭がよく見えた。


オスカーは出されたお茶に手をつけず、ただじっと座っていた。
夫人は、キッチンと客間をおろおろと行ったり来たりしていた。
無愛想で奇形の子供を持て余しているのがわかる。
作り笑いがひきつっている。
他人が奇異な目で見てくるのは馴れていた。

こちらが黙っていれば、そのうち世話をやこうという気をなくして、放っておいてくれるようになる。
ロイエンタール家の使用人もみんなそうで、彼らは当主が酔って癇癪を起こすのは恐れたが、陰気な少年にはほとんど目もくれず、最低限の事しかやらなかった。

そのうち、掃除が済ませた庭師が、オスカーを二階へと案内した。
二階には、3つ部屋あり、そのうちの一つが客間だった。
部屋は狭く、床はほとんどベッドに占領されている。
召使いの部屋のようだった。

「何か必要なものがあったら、言ってくださいね」
後ろから入ってきた夫人が、ベッドを整えながら言う。
「夕方には息子が夏期休暇で士官学校から戻ってきますから、坊ちゃまのお相手をさせますわ」

何度か夫妻の間で出てくるウォルフというのが、この家の一人息子らしい。
客間の飾り窓に、写真たてがいくつかあり、その中にまだほんの小さな子供が士官学校の制服を来て写っているものが何枚かあった。
蜂蜜色の髪の毛が、夫人とよく似ている。

平民がいちばん手っ取り早く出世できるのは、軍人になることだった、ということは、まだ12才のオスカーにも解っている。
その分、命を落とす危険は大きかったが。
父の友人に軍人は何人もいたが、皆オーディンでの地上勤務だった。
前線には、平民出身の名ばかりの士官が送られるのだ。

この家のウォルフも士官学校を出れば、すぐ前線送りだろう、可哀想に。

だが、さしあたってオスカーには、この家の息子がどうなろうと関係なかった。

彼は、西日が射し込む狭い部屋のベッドに横たわった。
こんなごわごわと堅いシーツに触るのは、オスカーは初めてだった。
しかし洗い晒しのシーツと枕からは、庭と同じ夏草と太陽の匂いがした。

いつの間にか、オスカーは緊張した体を投げだし、うとうとと寝入っていた。







2012-09-18