初恋らしい



オスカー・フォン・ロイエンタールとウォルフガング・ミッターマイヤーが初めて出逢ったのは、イゼルローン要塞での事である。

それは、勤務外の時間、つまり夜、後イゼルローンと呼ばれた将校専用のクラブでの事であった。
店の女が、ある士官を射殺するという前代未聞の事件が起きた時に、2人はたまたま、そして別々のグループとして、その酒場に居合わせたのだ。

当然、同時刻に店にいた士官たちは全員が、自動的に憲兵隊の捜査の対象になってしまった。
戦場で命を落とすならともかく、将官が夜のイザコザで酒場女に撃たれるなど、不名誉な事はなはだしいだけに、誰も関わりあいになりたいわけがない。

ロイエンタールとミッターマイヤーは、自分たちに余計な火の粉が降りかからぬようにと共同戦線を張り、2人で、時には数人を交えて計画を練り、口裏を合わせ、憲兵隊の捜査に協力しつつ、巻き込まれないよう慎重に立ち回った。

当時ロイエンタールは22歳で、ミッターマイヤーは21歳であった。
この事件が起きる前は、お互いに、噂の中でしかお互いを知らなかった。
共に中尉階級にある身ではあったが(それぞれ事情は全く違ったが…)、生まれも育ちも何の接点もなかったのである。

一週間ののち犯人が捕縛される頃、毎日のように捜査の関係で顔を合わせていた2人は、すっかり意気投合していた。
事件が終わった翌日に、同じ酒場で自分たちの無事に祝杯をあげ、飲み明かした。
その翌日は、肩肘張るのは面倒だと、もう少しこじんまりした店に河岸を替え、また深夜まで他愛のないことを語り合った。
2日間とも、かなりの酒量にのぼったにも関わらず、翌朝の気分は悪くなかった。

3日目の朝である。
その日も勤務時間の後は、ミッターマイヤーと過ごすのが良いようにロイエンタールには思われた。

だが、その事に、かすかな逡巡を覚えるのも確かであった。
捜査の間の一週間と、その後の2日間と。
果たして今日も一緒にいていいものか、とロイエンタールは頭のどこかで考えた。

司令部の執務室に入ると、数人の同僚はすでにデスクワークに追われていた。
ロイエンタールが座ると執務室付きの副官が、コーヒーを持って来る。
珍しい事に、副官が向こうから話しかけてきた。
「昨日は、ミッターマイヤー中尉とお出かけでしたか」
ロイエンタールは美貌とも言える顔を、わずかにしかめた。
「……卿は、ミッターマイヤーと知り合いなのか?」
ロイエンタールの問いに、副官は慌ててかぶりを振った。
「い、いえ、昨日お二人を市街でお見かけしただけです……ミッターマイヤー中尉は、平民で、お若くして将官になられた方ですから、お名前だけは…」

その副官も平民の出であろう。
ロイエンタールよりも年上で、人は良さそうだが、それ以上階級が上がるような男には見えなかった。
それきり沈黙してしまったロイエンタールの前から、居心地が悪そうな顔をした副官はそそくさと辞去して行った。

思いもよらぬ所から何かが飛び出してきたような気分だ。
あの副官が執務以外の事で話しかけてきたのは初めての事だったのである。

……どこまで、どんな風に知れ渡っているのやら。
善良そのものの顔をしたあの副官に、何か悪気があったとは考えられない。
おそらく、高級クラブではなく、下級兵士が行くような小さな酒場に顔を出した将官2人にやや親しみを感じて、話しかけてきたのだろう。
ロイエンタールもミッターマイヤーも、方向性は違えど、この要塞内ではある程度名は知れているのかもしれない。
「女ったらしの下級貴族」と「かたぶつの平民」。
まるで噛み合いそうもない2人が一緒にいる所は、さぞかし奇異に映る事だろう。
彼自身でさえ、そう思っているのだ。

ロイエンタールは、こんなに長い時間を、一人の人間と一緒に過ごした事がなかった。

元々、人付き合いが良いというわけではない。
もっとも、同僚たちが集まるときは、挨拶代わりに顔を出すぐらいの礼儀はわきまえている。
むろん、女絡みの噂や、目立つ容姿から、同僚たちの中に、ロイエンタールを敬遠する者は少なからずいた。
別にそういった者たちから何と言われようと一向に構わなかったし、こちらから近づくつもりもない。
自分が近寄り難いと思われているのも、知っている。
だが、おおむね、同僚たちとは、その気になりさえすれば、誰とでもそつのない会話、そつのない交友関係を築く事が、彼にはできたのである。

しかし、特定の一人の人間とだけ長々と一緒にいる事は、考えてみればこれまで一度もなかった。
それを不思議に思った事も、彼はなかった。
誰と一緒にいようが、彼の中には常に防御のための壁のようなものが存在する。
この壁は彼の人生の最初の出発点からあり、徐々に高くそびえたって行き、自分ではどうする事もできなかった。
相手も踏み込んでくる事はなかったし、そうさせる隙もロイエンタールは与えなかった。


ミッターマイヤーという、一つ年下の、小柄な、平民階級の将官と、2人だけで飲み明かした晩、ロイエンタールは初めて時間を忘れるほど誰かと一緒にいる事に没頭するという経験をした。
蜂蜜色の髪を揺らしながら、まだ少年のような顔つきのミッターマイヤー中尉は、なんの屈託もなくロイエンタールの隣の席を占め、曇りのない大きなグレイの瞳をこちらに向けて来た。
ロイエンタールの口は、何の警戒心もなく滑らかに動き、自分で警戒心をなくした事に気づかないくらいだった。
彼は初めて、別れ際が惜しいと思った。
また、逢いたいとも。

1日目と、2日目は、勤務時間中に、同じ要塞内にいるミッターマイヤーと偶然すれ違う機会があったので、ごく自然に夜の約束をする事ができた。
だが、今日は。
この要塞内で、何度も偶然が起こるだろうか。
訓練に向かう途中、ロイエンタールは長い指を顎に当てて、一瞬立ち止まった。
要塞内の歩道を行き交う兵士達の中に、蜂蜜色の髪をした小柄な姿を見つけられないかと、つい目をあげる。
すれ違う同艦隊勤務の者が、ロイエンタールに気づき、瞠目しながら敬礼をして通りすぎて行く。
長身で美丈夫である彼は、無機質に均一化された兵士達の中にあって人目を引いた。

自分から、連絡した方が良いのだろうか。
ロイエンタールは再び歩き出した。
彼は、公用以外で、自分から誰かに連絡をするという経験がほとんどなかった。
たいていは、頼みもしないのに向こうから寄って来るのだ……特に女は。
だいたい、ミッターマイヤーの方は、そう何日も俺と一緒にいて、飽きないものだろうか。


……なかなか、打ち解けて話せる人間がいないんだ。
昨晩、酒を酌み交わしながら、ミッターマイヤーは軽く肩をすくめ言った。
平民で、二十歳そこそこで士官になっている者など、ほとんどいない。
士官用の宿舎にいても、周りはミッターマイヤーの存在などまるでないように振る舞う貴族の子弟たちか、年の離れた年長者ばかりなのだと言う。
同年代の平民階級の者の多くは徴兵されてきた平の兵士で、顔をあわせる機会がほとんどない。

ああ、だから、俺と一緒にいるのか、とロイエンタールはそのとき得心した。
ロイエンタールの方も似たようなものだが、末席とはいえ貴族に名を連ねている以上、まだ向こうよりはましな状況であるだろう。
加えて、ミッターマイヤーのあの童顔では、軍隊以外での階級が上な部下や同僚たちからどのように見られているかは想像に難くない。


その時、ロイエンタールはふと、足を止めた。
向かいのブリッジへと昇って行くエスカレーターに、蜂蜜色の頭髪を見つけたのだ。
遠目ではあるが、間違いようはずもない、ミッターマイヤーであった。

ミッターマイヤーは彼より幾分年上に見える下士官と2人連れであった。
長いエスカレーター上で、時おり手振りを交えながら何かを熱心に話しこんでいる。

ロイエンタールはかすかに片方の眉をあげ、その姿をただ黙って見ていた。
声をかけられるような距離ではない。
だが、もし目の前にこの2人がいたとしても、声をかけたかどうかはわからなかった。

色彩の違う瞳の端に映るミッターマイヤーが、不意に相手の男と顔を見合わせて笑いだした。
それは、ロイエンタールと一緒にいる時と少しも違わない、屈託のない笑みだった。
2人は笑い合い、ふざけてこづきあいながら、やがてエスカレーターがブリッジに到着し、ミッターマイヤーの姿はシミュレータールームの方へ消えて行った。

ロイエンタールは目を伏せると、足早に目的の方向へと歩き出した。
……話せる人間がいない、などとこぼしてはいたが、どうして、あのような年上らしき人物とも上手くやっているようではないか。
急に、妙に拍子抜けした気分になった。

ミッターマイヤーは話しやすい。
確かに、このような階級社会では彼のような出自の低い者は生きにくい面もあるのだろう。
それでも、ミッターマイヤーの周りには、ごく自然と人が集まる。
例の酒場での事件で顔を合わせた時もそうで、あの事件が起こる直前に数人の下士官たちと陽気にはしゃいでいた。

今朝、話しかけて来た副官もそうであった。
ロイエンタールの前では常に全身を緊張させ何かを恐れるように畏まっている副官が、知り合いでもないミッターマイヤーの名前を親しげに口にする。
それは、何も同じ平民階級だから、という理由からだけではないだろう。
このように下々からも親しまれる将校が、いったい何人いるというのか。

ミッターマイヤーの前だと、自分が妙に饒舌になることを、ロイエンタールは気づいている。
壁が消えている事を自覚している。
おそらく、あの副官も気づいた事だろう。
普段は近寄り難いオーラを放つ自分の上司が、あの小柄な中尉といる時だけは、まるで顔つきが違うと言う事に。

だが、それはきっと、ロイエンタールだけではないのだ。
先ほどミッターマイヤーと一緒にいた男、いくらか年上で、だが階級は低い男、奴も上官たるミッターマイヤーの前だというのに、遠慮のない顔でずいぶんと楽しげだった。
誰にでもそうさせるものが、確かにミッターマイヤーにはある。
そう誰にでも。
ロイエンタールだけではない。

……だから?
だから、なんだというのだろう。
いったい、自分は何を望んでいるというのか。
どこか苦い気分になりながら、ロイエンタールは途を急いだ。

さしあたって、目の前に、他にいくらでもやらねばならぬ事がある。

勤務時間の終了間際は、退屈なデスクワークがつきものだ。
そこから解放される頃、執務室のロイエンタール専用の端末機に、メッセージが入った。

私用のメッセージなど送ってくる者など、この地では一人しか心当たりがない。
画面に現れた文字列は、いたってシンプルだった。

ー“予定がなければこれから飲みに行かないか”

まばたきを忘れた金銀妖瞳が、その短いメッセージの上を何度か行き来する。
同じ階の、少し離れた別の執務室にいる、あいつが送って来たのだろう。
固い椅子の背もたれに深く背を預け、ロイエンタールは腕を組んだ。
そして天を睨みつけるようにして押し黙った。

なんでこんなにも単純に。
こんなにも簡単に、彼はロイエンタールを切り崩す事が出来るのだろうか。

昼間、声の届かない場所から見た笑顔が頭をよぎる。
知らない誰かに笑いかけているグレイの瞳。

少しの間考え込んだ後、ロイエンタールは細長い指で返事を入力した文を送信する。

「そっちこそ他に予定があるなら遠慮しなくていい」

駆け引きめいた事をしても何の益もない事はわかってはいたが、どこかに抜け道をつくるのがロイエンタールのいつものやり方だった。

数分をおいて返信が来る。

ー“こちらには予定はないが、そちらが都合がつかないならはっきり言ってくれ。卿はどうも回りくどい言い方が多い”

ロイエンタールが送った試すような文を見ながら、蜂蜜色の髪を困ったようにかき混ぜる姿が容易に浮かんで来る。
確かに無意味な返信をしたこちらが悪いのだ。
それは十分分かっている。
分かっているというのに。
机に両肘を置いて、軽いため息をつく。

「卿は、馬鹿か…」
思わず、誰もいない空中にそうつぶやいた。
目の前にあいつがいたら、きっとどやしつけてやっただろう。

何でミッターマイヤーにはわからないのか。
何であいつは、俺をこんな気分にさせる。

さして彼らと関係のない、ちらりと街中で見かけたという副官でさえ、わかっているのだ。
おそらく周りの誰もが気づいているだろう。
……俺が、お前と、一緒に居たいという事に。

出逢ったばかりのこの小柄な一つ年下の中尉は、あんな罪のない可愛い顔をして、ロイエンタールが決して避けられない二者択一を迫る。

壁の中に戻るか、それとも……。

ロイエンタールは音を立てて立ち上がった。
彼のいつもの優雅な挙動を知る者から見たら、その性急さに驚いた事だろう。
そうして、彼は足早に部屋を出た。
大股で向かう先は一つしかない。

なあ、ミッターマイヤー、ハッキリ、面と向かって教えてやるよ。
お前以外に、予定なんかないってことをな。

- end -

2012-08-28

最初に書いたもの。とにかく普通っぽくした。